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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 独ソ戦勃発!そのとき日本は?#48 大量の素人外交官を生み、情報戦に遅れをとる原因を作った松岡人事

    #48 大量の素人外交官を生み、情報戦に遅れをとる原因を作った松岡人事

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部4章 独ソ戦(1/12)ソ連を巡る当時の世界情勢と各国の軍事力比較

    日本はなんのために戦ったのか

    3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

    その2.松岡外相訪欧前の動き

    ー 訪欧の真の目的とは ー

    独ソ戦
    https://blogs.yahoo.co.jp/eraser1eraser/60957981.htmlより引用
    ベルリンで歓迎を受ける松岡洋右外相

    松岡外相は1941(昭和16)年3月12日に訪欧の途に就きました。戦前の現職外相の海外出張は、日露戦争の講和でポーツマスに赴いた小村寿太郎外相以来のことでした。その表向きの目的は三国同盟成立を祝するための独伊訪問です。

    独ソ戦
    wikipedia:松岡洋右 より引用
    【 人物紹介 – 松岡洋右(まつおか ようすけ) 】1880(明治13)年 – 1946(昭和21)年
    明治-昭和時代前期の外交官・政治家。苦学の末アメリカ留学を果たし、外交官となる。国際連盟特別総会に首席全権として出席し、連盟の満州国批判決議に抗議して退場。連盟脱退の英雄となる。

    満鉄総裁を経て、第二次近衛内閣の外相となり、日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結。訪欧から帰国後は親独になびき、日米交渉に異を唱えた。戦後、A級戦犯として起訴されたが裁判中に獄中にて病没。

    しかし、松岡が真に重きをおいていたのはソ連への訪問でした。四国同盟となる「リッベントロップ腹案」にソ連を協調させるとともに日ソ国交調整を実現することこそが、松岡が訪欧した本当の目的です。
    ▶ 関連リンク:4-1.三国同盟に託した日本の行く末 その6.なぜ三国同盟を結んだのか ー 失敗に終わったソ連との交渉 ー

    日本が三国同盟に踏み切ったのは、ソ連を交えた四国同盟を前提としていたからであることは既述の通りです。日本にとって三国同盟は通過点でしかなく、ソ連を加えた四国同盟が実現することではじめて英米に対抗できると考えたのです。

    四国同盟が無理なのであれば日ソ国交調整を実現することで、その代替とするつもりでした。日本が三国同盟の締結へと踏み込んだのは、ドイツが日ソ国交調整の仲介をしてくれると約束してくれたからこそでした。

    それなのに日ソ国交調整さえできないのであれば、三国同盟は日本にとって無意味どころか、むしろ有害と言って差し支えない代物に成り下がってしまいます。

    しかし、日本の期待に反し、ソ連を枢軸国側に引き寄せるための工作は難航していました。四国同盟が締結される動きはなく、日ソ国交調整にしてもドイツの仲介はまったく為されない状況でした。

    障害となったのは、ソ連の掲げる世界共産主義と日独伊三国の国家的資本主義との衝突でした。ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約にて手を握りながらも、内心では互いを憎悪し合っていたのです。

    独ソ戦
    wikipedia:アドルフ・ヒトラー より引用
    【 人物紹介 – アドルフ・ヒトラー 】1889年 – 1945年
    ドイツの政治家。オーストリア生まれ。第1次世界大戦に志願して出征した後、ドイツ労働者党に入党、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称して党首となった。ミュンヘン一揆に失敗して入獄。出獄後は合法活動によって党勢を拡大し、1933年に首相、翌年大統領を兼ねて総統となり全体主義的独裁体制を確立。いわゆる第三帝国を建設した。

    反ユダヤ主義とゲルマン民族の優越性を主張、ユダヤ民族撲滅を目指してホロコーストを実行した。強硬外交と軍備拡張により近隣諸国を次々に侵略し、第2次大戦を引き起こす。ベルリン陥落直前、官邸にて自殺を遂げた。
    両国の不協和音はバルカンにおける利害の衝突となって表れ、もはや修復できないほどに独ソの間に深い楔(くさび)を打ち込んでいました。

    独ソ戦
    wikipedia:ヨシフ・スターリン より引用
    【 人物紹介 – ヨシフ・スターリン 】1878年– 1953年
    ソ連の政治家・軍人。ソ連第2代最高指導者。チフリス高等神学校に在学中グルジアの愛国的社会主義団体に加入しマルクス主義に接近。神学校から追放された後、職業革命家となり革命まで逮捕・流刑・逃亡を繰り返す。

    ロシア革命ではレーニンを助けて活躍。レーニンの死後、一国社会主義論を唱えてトロツキーら反対派を次々に追放し、独裁体制を固めた。「スターリン憲法」を定め、膨大な数の党員を投獄・処刑する「大粛清」を実行。第2次世界大戦では国防会議議長・赤軍最高司令官として戦争を指揮。独ソ戦では緒戦で大敗北を喫したが、米英などと共同戦線を結成し対ドイツ戦を勝利に導く。

    ヤルタ会談に基づき日ソ中立条約を一方的に破棄して満州侵略、多くの日本人民間人を虐殺した。終戦の翌日、北海道の北半分(釧路市と留萌市を結ぶ線以北)に対してソ連の占領を認めるよう米大統領トルーマンに要求。樺太・千島列島への侵攻を開始したが、日本軍に阻まれ北海道上陸を断念。戦後は東欧諸国の社会主義化を推進した。

    ー バルカンを巡る独ソの対立 ー

    独ソ戦
    第2次世界大戦とヨーロッパより引用
    第二次世界大戦中のヨーロッパにおける枢軸国と連合国の動き、地図上のルーマニア・ユーゴスラビア・ブルカリア・アルバニア・ギリシャがバルカンに当たる

    ここまでの独ソの動きを簡単に整理してみましょう。1939(昭和14)年8月に独ソ不可侵条約を締結して以来、独ソはポーランドを仲良く分割しました。

    ソ連はそのままフィンランドに侵入しています。ドイツは翌1940(昭和15)年4月にノルウェーとデンマークを呑み込み、5月にはオランダ・ベルギー・フランスに侵攻すると瞬く間にオランダとベルギーを占領し、6月にはフランスまで降伏に追い込みました。

    ソ連はフランスの降伏前後に動き、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国に対して軍事的な圧力をかけることで、併合に成功しています。独ソ共に凄まじいまでの侵略ぶりです。

    このあたりまでのソ連の動きは独ソ不可侵条約の密約に則ったものであり、ドイツとしても文句を言える筋合いではありません。問題はこの後です。

    フランス降伏後にソ連がルーマニア北部を併合したことは、ドイツの怒りを買いました。ルーマニアにはドイツが狙う油田があったからです。

    ルーマニアを含むバルカン半島は近隣諸国の利害が複雑に絡み合う場所であり、古くから「ヨーロッパの火薬庫」と称されてきました。バルカンの利権を巡り、独ソは対立することになったのです。

    ドイツはソ連に対抗するためにルーマニアに干渉し、周辺国との国境問題をウィーン裁定によって調整すると10月には首都ブカレストに進駐を果たし、これを保護国としました。

    四国同盟となるリッベントロップ腹案がソ連に示されたのは、その直後です。ソ連は条約の締結には前向きでしたが、その代償としてバルカンの利権をドイツから奪うに等しい条件を提示しました。

    バルカンへの野望を抱えるヒトラーにとって、それは飲むことのできない条件でした。リッペントロップをはじめ、幕僚の多くはソ連との交渉を続ける利を説きましたが、ヒトラーは耳を貸しません。

    独ソ戦
    wikipedia:ヨアヒム・フォン・リッベントロップ より引用
    【 人物紹介 – ヨアヒム・フォン・リッベントロップ 】1893年 – 1946年
    ドイツの実業家・政治家・外交官。最終階級は親衛隊名誉大将。第一次世界大戦に従軍し、戦後はぶどう酒商人として成功を収める。ナチス入党後、ヒトラーの目に止まり高く評価される。そのため、古参の幹部達からは妬まれることになった。

    敵対勢力と対抗するために、狂信的と言われるほどの強固なナチズム信奉者・反ユダヤ主義者になっていった。影の外務省と言われる「リッベントロップ機関」を創設。英独海軍協定および日独防共協定の交渉をまとめた。駐英大使を経て外相に就任。独ソ不可侵条約や日独伊三国同盟を成立させた。ヒトラーの死後に外相を解任され、戦後、ニュルンベルク国際軍事裁判で絞首刑に処される。

    ヒトラーはソ連に回答を送る代わりに、ソ連が狙うルーマニアに独立保障を与え、ブルガリアへの進出を図りました。

    もはやヒトラーにはソ連を枢軸国側に引き入れる気などありません。まして日ソ国交調整の仲介など期待できる状態ではなくなっていました。ヒトラーはソ連を武力で制圧する方向へと舵を切ったのです。

    ソ連を自陣営に引き込むことが大戦の勝敗を分ける鍵になるとわかっていたにもかかわらず、ヒトラーが対ソ戦を決意した理由については、後ほど紹介します。

    もしこのとき、ヒトラーがソ連との関係を修復しようと動いていれば、歴史の流れは大きく変わったことでしょう。

    ただし、独ソの関係が融和から対立へと変化した責任はドイツだけに求められません。スターリンの外交政策にも問題はありました。

    世界の共産化を目指すソ連にとって、ドイツも米英も元来は敵対国であることに変わりありません。一時的にどちらかと手を組むことはあっても、将来的にはドイツやアメリカとの戦いを避けられません。ソ連にとって最も望ましいのは、アメリカが欧州大戦に参戦し、ドイツとアメリカが長期戦争を行うことでともに国力をすり減らす展開です。

    ソ連は敵国であるはずのドイツと一時的に不可侵条約を結ぶことで、ポーランドに侵攻し、バルト沿岸諸国の侵略に成功しました。フィンランド戦争を抜かせば、自らの血を流すことなく西方に勢力を伸ばすことができたのです。

    望外の領土を得たソ連にとって、もはやドイツと蜜月時代を続ける理由はなくなっていました。ソ連は手のひらを返すようにドイツに背を向け出します。

    イギリス制圧に手間取るヒトラーの窮状に付け入るように、スターリンはバルカンに侵略の手を伸ばしました。スターリンとしては、ソ連を味方に付けておきたいヒトラーが真っ向から勝負を挑んでくるはずがない、との読みがあったのでしょう。

    しかし、ヒトラーは独ソ関係が険悪化しても構うことなく、強気でバルカン制圧に乗り出しました。その様子を見たスターリンは虎の尾を踏んでしまったことに気づき、あわててドイツに対して宥和(ゆうわ)策を打ち出しますが、すべては遅すぎました。もともと共産主義に嫌悪感を抱えるヒトラーは、この世界からソ連を取り除く覚悟をすでに固めていました。

    後に判明したことによると、ヒトラーは早くも12月18日には対ソ開戦準備命令となるバルバロッサ作戦を発令していたことが判明しています。さらに、ドイツ陸軍参謀総長ハルダー将軍の日記によれば、ヒトラーは1940(昭和15)年7月31日の時点で対ソ戦を決意していたと記されています。

    独ソ戦
    wikipedia:フランツ・ハルダー より引用
    【 人物紹介 – フランツ・ハルダー 】1884年 – 1972年
    ドイツの軍人。最終階級は陸軍上級大将。軍人を歴代輩出する家系に生まれる。第一次世界大戦には東部戦線・西部戦線で参謀として従軍し戦功を挙げ、一級鉄十字章を授与される。

    ナチスが政権をとった初期はナチスと距離を置いていたが、ヒトラーの知遇を得て出世を果たし、第二次世界大戦初期には参謀総長を務める。独ソ戦中の作戦にてヒトラーと意見が対立し更迭され、予備役編入。のちヒトラー暗殺未遂事件が発生すると1938年のクーデター計画に加担していたことが発覚し家族とともに逮捕、強制収容所に送られる。のち連合軍に保護され、アメリカの捕虜となる。

    ヒトラーと対立した経歴が幸いし、ポーランド侵攻・西方侵攻・バルバロッサ作戦などの作戦策定に参謀総長として関わっていたにもかかわらず戦犯になることもなく釈放された。その後、アメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所の所長となる。現在一般的な第二次世界大戦の戦史記述は、ハルダーによる影響が大きいとされる。

    ー 日本はなぜ情報戦に負けたのか ー

    独ソ戦
    テレビ東京 池上特番より引用
    松岡外相による松岡旋風人事が大量の素人外交官を生み、情報戦に遅れをとる原因となった

    ハルダー将軍の日記が正しければ、三国同盟の打ち合わせのためにスターマー特使が来日する1ヶ月前には、ヒトラーはソ連と戦争をする覚悟を決めていたことになります。

    独ソ戦
    wikipedia:ハインリヒ・ゲオルク・スターマー より引用
    【 人物紹介 – ハインリヒ・ゲオルク・スターマー 】1892年 – 1978年
    ドイツの外交官。第一次世界大戦の従軍で鉄十字勲章を受章。非公式な外交機関として設立されたリッベントロップ機関に加わり、日独防共協定締結に関わる。のち外相となったリッベントロップの側近として日独伊三国同盟の締結に関わり、特派公使として来日。オイゲン・オット駐日大使とともに親ドイツ派として知られた松岡洋右外相との交渉にあたった。

    のちドイツ敗戦まで駐日特命全権大使を務めた。戦後、アメリカ軍によって逮捕されるもドイツへ送還された後、釈放。

    つまりドイツにとって三国同盟は、近い将来の独ソ戦を見据えた上で締結された、ということです。

    ソ連を加えた四国同盟を期待して三国同盟に踏み切った日本と、対ソ戦を含みに日本との軍事同盟を急いだドイツとでは、「同盟」の意味するところがまったく異なっていました。

    日ソ国交調整を仲介するなど甘言を弄するドイツに、日本側はまんまと手玉にとられたと言えるでしょう。ドイツの快進撃にばかり目を奪われた日本側の情勢判断は、あまりに甘すぎたとの謗(そし)りは免れません。

    日本側の情報収集が杜撰(ずさん)になった理由として、大島独大使がドイツに義理立てして日本側の情報収集を止めさせたことに加え、就任してすぐに外交官の大量異動を行った松岡旋風人事による悪影響が指摘されています。

    独ソ戦
    wikipedia:大島浩 より引用
    【 人物紹介 – 大島浩(おおしま ひろし) 】1886(明治19)年 – 1975(昭和50)年
    陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。第二次世界大戦前から戦中にかけて駐ドイツ特命全権大使を務める。大使就任後はリッベントロップに接近し、日独伊三国同盟締結のために奔走した。終戦後の極東国際軍事裁判ではA級戦犯として終身刑の判決を受けるも、後に釈放された。

    赦免後には自民党から国政選挙への立候補を度々要請されたが、「自分は国家をミスリードした。その人間が再び公職に就くのは許されない」として断り続けた。

    松岡は外務大臣に就任すると、すべての外交を自分の掌中に握ったうえで取り仕切ろうと目論みました。その手段として、松岡は在外外交官をほとんど全面的に更迭するという思い切った処置に出ています。霞が関出身の大公使を片っ端から召還し、あえて外交には不慣れな退役軍人や元代議士を送り込むなど、型破りな人事を実行しました。

    独大使として派遣された大島浩中将も、その一人です。職業外交官でただ一人残されたのは駐英大使の重光葵のみという徹底ぶりでした。

    独ソ戦
    wikipedia:重光葵 より引用
    【 人物紹介 – 重光葵(しげみつ まもる) 】1887(明治20)年 – 1957(昭和32)年
    第二次世界大戦期の日本の外交官(外相)・政治家。満州事変当時は駐華公使。1943年11月の大東亜会議を開くために奔走した功績は高く評価されている。敗戦後は日本政府の全権として降伏文書に署名した。

    東京裁判ではA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受ける。釈放後は外相として日本の国連加盟を成功させた。

    職業外交官と素人の外交官では、情報収集に差が生じるのは当然のことです。ドイツについての情報収集に日本は大きく遅れをとり、常に後手に回っての対応を迫られたのです。

    それでもドイツが11月にルーマニア・ハンガリー・スロバキアを三国同盟に加入させ、さらに翌1941(昭和16)年3月にはブルガリアに侵攻し、同国を三国同盟に加盟させることでバルカン半島に反ソ体制を築くと、さすがに独ソの関係が緊迫してきたことを伝える情報ももたらされるようになりました。

    オーストリア公使からはバルカンを巡る独ソの深刻な対立を伝える詳細な情報が届いています。しかし、大島独大使と建川美次ソ連大使からは独ソ親善を伝える報告ばかりが届いていたため、日本政府はよもや独ソ戦が始まるほど両国の仲が険悪化しているとは夢にも思っていなかったことが、当時の要人が残した日記や手記から浮かび上がってきます。

    独ソ戦
    wikipedia:建川美次 より引用
    【 人物紹介 – 建川美次(たてかわ よしつぐ) 】1880(明治13)年 – 1945(昭和20)年
    明治-昭和時代前期の軍人・外交官。最終階級は陸軍中将。日露戦争に騎兵として出征し、建川挺進隊長として名を馳せる。 その活躍は『敵中横断三百里』のモデルとなった。

    満州事変の直前、参謀本部第一部長として現地に派遣された際は関東軍の謀略を黙認した。師団長などを経て予備役に編入。松岡外相の下、駐ソ大使となり日ソ中立条約の交渉にあたった。

    このような情勢のなか、松岡はドイツの真意を確かめるべくヨーロッパに旅立ちました。

    ヒトラーやイタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリンと五分と五分で意見を交換し合い、日ソ国交調整を成し遂げた後に訪米し、日米で力を合わせて世界平和の回復のために協力し合うという大志を、松岡は胸に抱いていました。

    独ソ戦
    wikipedia:ベニート・ムッソリーニ より引用
    【 人物紹介 – ベニート・ムッソリーニ 】1883年 – 1945年
    イタリアの政治家。小学校教員を経て社会党左派に属するも、第一次大戦にて主戦論を採ったことにより除名。大戦に従軍して負傷。戦後、武装私兵として知られる黒シャツ隊を組織し、社会主義者を襲撃した。国会議員当選後、ファシスタ党を結成し党首となる。ローマ進軍により政権を掌握、ファシズム体制を確立して独裁者となった。その後はイタリア・エチオピア戦争、スペイン内乱介入など対外侵略を推進。

    独日と結び第二次大戦に突入。連合軍のイタリア上陸で失脚し、一時はドイツ軍に救出されるも、のちパルチザンに捕らえられ銃殺。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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