第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部4章 独ソ戦(5/12)独ソ開戦間近!日本は米英親善へ舵を切るチャンスがあった
日本はなんのために戦ったのか
3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道
その4.高まり行く独ソ開戦の危機と日本の対応
ー 北進か南進か ー
wikipedia:北進論より引用
北進論として計画されたソ連への侵攻ルート 1.北樺太と沿海州へ 2.外蒙古とバイカル方面へ 3.イルクーツクへ 4.中央シベリアへ
「独ソ開戦は今や必至なり」と告げる大島電が届いて以来、陸軍では独ソ開戦後の日本の方針を巡って北進論と南進論が興り、熱い議論が連日交わされました。
当時の日本は第二次近衛内閣誕生時に「時局処理要綱」を国策と定めていました。「時局処理要綱」の基本は、北守南進です。ソ連と接する北面は守備に徹し、日中戦争に決着をつけるために援蒋ルートの遮断と資源の確保を目指し、積極的に南方への進出を図ることが日本の国策でした。
ただし、その後の情勢の変化に伴い、南方への武力行使は自存自衛の場合に限ると修正されています。
▶ 関連リンク:2.北部仏印進駐の余波 – その10.南進策の修正
一度は定まった国策も独ソ開戦が避けられないとなると、根本から見直しを迫られることになりました。
日本陸軍創設以来の伝統は、北進です。南進策を優先するために棚上げされていた北進論が独ソ開戦を前に復活したのは、ごく自然なことと言えるでしょう。陸軍のなかには北守南進に不満をもつ者も多くいたのです。
独ソ開戦の際、「三国同盟を結んでいるのだから日本もドイツと歩調を合わせて対ソ戦に入るべきだ」と主張する北進論を支持する声は、次第に陸軍内に広がっていきました。日本が対ソ戦に踏み切るということは、締結したばかりの日ソ不可侵条約を破棄することを意味しています。
条約破棄という国際的な非難を浴びてでも対ソ戦を支持する声が大きかったのは、独ソ開戦こそは日本にとって常に潜在的な脅威であったソ連を葬るチャンスだ、と捉える軍人が多かったためです。
問題はドイツにソ連を降伏に追い込むだけの力があるかどうかでした。ドイツ首脳は数ヶ月の内に対ソ戦に勝利すると言明していますが、その言葉に信用がおけるかどうかは、日本にとって極めて重要でした。
独ソ戦がドイツ有利に展開し、本当に短期終結してドイツが勝利するならば、日本にとっても歓迎すべき事態です。ソ連の脅威が完全に取り除かれるとなると満州に精鋭軍を貼り付けておく必要もなくなり、中国大陸や南に向けてなんの憂いもなく進軍できます。
独ソ開戦と連動して日本が対ソ戦に入ることは、軍事戦略上も意味のあることでした。ソ連のように東西両洋に渡る広大な領土を誇る国家との戦争に際しては、一正面から攻めても懐が深いため、勝ちきるのは至難の業です。しかし東西二正面から同時に攻め込めば、勝てる確率は高くなります。
日本とドイツは地理的に離れていますが、大国ソ連を東西で挟む場所に位置しています。それを偶然と呼ぶにはあまりにも不自然です。
三国同盟を結んだ時点でヒトラーはすでに対ソ戦を決めていたとされています。ヒトラーが日本と軍事同盟を結んだ背景には、ソ連を挟撃するという狙いがあったのかもしれません。
独ソ開戦に合わせて北進すべきか否か、陸軍参謀本部と軍務局・海軍は激しく対立することになります。
ー 北進論の骨子 ー
ドイツはなぜ、日本に日ソ中立条約を破棄して…:ヤフー智恵袋より引用
独ソ戦に併せ、ドイツとともにソ連を挟撃することが北進論の骨子だった
北進論を強く言い張ったのは、参謀本部作戦部長の要職にあった田中新一です。田中は6月9~10日に行われた参謀本部部長会議にて自説を次のように主張しました。
「当面の問題としては、独ソ戦の場合に乗じて当方多年の問題解決に乗りだすかどうかである。しかしそれをやるには漫然好機を待つというのではなく、進んで好機を作為し捕捉する着意を忘れてはならない。……南北両方面ともに、この好機を利用して諸懸案を解決する必要あり。」(田中「大東亜戦争への道程」)
『昭和陸軍全史 3 太平洋戦争』川田稔著(講談社)より引用
田中はあくまで対ソ戦への強い意欲を示しました。「進んで好機を作為し捕捉する」との積極策に田中の強硬な意思が感じられます。
その意味するところは、実際に好機があろうとなかろうと、好機を自ら作ってでも武力行使をする、ということです。早い話が、好機の有無にかかわらず積極的に武力行使に打って出る、と言ったも同然です。
田中がここまでの強硬論を唱えたのは、日本が生き残るためにはソ連を崩壊に導くよりないと考えたからです。先にも紹介したように、田中は独ソ開戦によって米英ソが連携することになり、日本は大きな軍事的圧力に直面することになると分析していました。
このまま様子見に徹しているだけでは次第にじり貧となり、いずれは座して死を待つよりなくなる、となれば、この窮地から脱するためにはソ連を倒すよりないと、田中は考えたのです。
ソ連を崩壊に導けばドイツは今度こそ本腰でイギリスに向かい、日本もまた英領マレーなど南方武力行使に全力で臨めるようになります。ドイツと共にイギリスを倒せば、もはや残るのはアメリカだけです。そうなれば日独伊でアメリカを包囲し、逆に圧力をかけることができます。そのような世界戦略を田中は描きました。
独ソ開戦という好機を利用してドイツと共にソ連を打倒することこそが、日本の生存の道だと田中は信じたのです。
さらに田中は北進だけを優先していたわけではありません。独ソ開戦となればソ連と連携した米英による対日経済制裁がより過激になることが予想されるだけに、早急に仏印とタイを日本の勢力圏内に取り込むべきだとも主張しています。
アメリカによって石油が止められれば日本は自存自衛のために蘭印を取りに行くよりなく、そのための足がかりとしても南部仏印に軍を進駐させる必要があると田中は述べています。
つまり田中は独ソ開戦となった折りには、北方武力行使と南部仏印進駐をともに実行すべきと主張したのです。陸軍の戦略を司る参謀本部の作戦部長の提議だけに、田中の考えは陸軍全体に大きな影響を及ぼしました。
ー 熟柿派と渋柿派の対立 ー
戦時中の日本のプロパガンダポスター貼ってけより引用
ソ連極東軍の戦力が減るのを待って攻め込むか、それとも戦力差をものともせずに直ちに攻め込むべきかをめぐり、陸軍内は対立した
一方、陸軍省軍務局長であった武藤章は田中の推す北進論に真っ向から反対しました。武藤は独ソ戦において、ドイツ首脳が豪語するように短期でドイツが勝利する可能性は低いと判断していました。広大な領土と豊富な資源を有し、強大な軍事力を備えるソ連が、そんなに簡単に屈服するはずがないと読んでいました。
そのため武藤は田中の主張する「進んで好機を作為し捕捉する」北進には異を唱え、独ソ開戦の際には冷静に戦況を静観し、日本にとって有利な状況となったことを見極めてから対ソ戦に踏み切っても遅くはないと反論しました。
武藤にしても北進そのものに反対していたわけではありません。結局、対立の争点となったのは、「極東ソ連軍がどの程度弱体化すれば攻めかかるのか」です。その判断を柿にたとえ、熟柿(じゅくし)派と渋柿派に分かれました。
熟した柿を食べるように、ほとんど戦闘を交わさなくてもよい状態まで待とうと主張したのが熟柿派、渋柿のままでも構わず、たとえ抵抗が予想されたとしても攻撃に出るべきと主張したのが渋柿派です。
渋柿派は田中作戦部長を筆頭に参謀本部内に多く、熟柿派は武藤軍務局長を中心に軍務局に多くいました。
渋柿派は独ソ戦が短期でドイツの勝利に終わることを前提としていました。対する熟柿派は長期化の可能性が高いと予測していました。陸軍内ではドイツ勝利の見通しをたてる軍人が多くいたため、熟柿派にとっては分が悪い対立でした。
戦いの帰趨(きすう)そのものは実際の経過を見なければわからないため、ドイツの短期勝利を覆すだけの材料もありません。
このままでは性急な対ソ開戦が陸軍の方針として決定されかねない状況でした。そこで、形勢不利に立たされた熟柿派がいよいよ困り果て、渋柿派に対抗するために持ち出したのが南方武力行使でした。
南方武力行使の必要性を説き、北進よりも先に南進を優先すべきだと訴えることで、陸軍の方針が渋柿論のままに決せられることを防ごうとしたのです。そのためには陸軍の方針を、北進より先に南進を始めるように誘導する必要がありました。
軍務局では新国策論が起草され、イギリス崩壊の際には好機を捕らえて南方武力行使に出ることが盛り込まれ、北方については熟柿主義で望むことが決定されました。急進的な北進論を抑制するために、その代わりとなる南進を強く主張することが軍務局の姿勢でした。
軍務局の推す南進優先策は参謀本部内でも一定の支持を得ました。北進を選んでも石油枯渇の危機を解決できないからです。対ソ戦を行うにしても、備蓄された分だけでは石油が足りないことは明らかでした。
日本が対ソ戦に踏み切ればアメリカが石油の禁輸に打って出ることは間違いなく、そうなると石油があるうちにソ連を降伏に追い込まない限り、日本は困ったことになります。戦局が長引き、一滴の石油もないとなれば、最早戦いを続けられません。
まずは南進を優先し、いつでも石油を確保できる状況を作ってから北進すれば良いと考えるのは、ごく自然な流れでした。
参謀本部は北進派と南進派に分かれ、激しい議論となりました。その結果、ついに結論が出せないまま南北いずれにも対応できるように準備を進めるという「南北準備論」に落ち着いたのです。
南方に対する準備とは南部仏印進駐であり、北方に対する準備とは満州と朝鮮にいる軍を増強するための動員でした。
ー 海軍の方針 ー
では、海軍はどう考えていたのでしょうか?
海軍では6月7日に「独ソ新事態に対する措置」と題した文書が作成され、海軍としての方針が定まりました。海軍は伝統に従い南進策を推し進めることとし、南部仏印進駐を第一の方針として掲げました。それ自体は独ソ開戦を受けて決めた方針ではなく、従来からの既定の方針に過ぎません。
北方へは基本的に不介入、独ソ戦の状況に応じて対応できるように静観することが、海軍の方針でした。
陸軍の北進を阻止することは海軍の伝統です。陸軍が進めようとする北進を牽制することは、すでに既述の通り予算争いの上でも海軍にとって重要な政策でした。
ー 独ソ開戦前における陸軍の国策 ー
【1937年】潮流(昭和12年)▷大本営の設置(陸軍参謀本部・於)ジャパンアーカイブズ:より引用
陸軍の方針は三宅坂の陸軍参謀本部内大本営陸軍部において策定された
南北準備論を掲げる陸軍参謀本部と、南進優先策をとる陸軍省軍務局との間で意見調整が行われ、6月14日には「情勢の推移に伴う国防国策の大綱」として合意されました。
その内容は次の通りです。
一、独ソ開戦の場合でも、対仏印・タイ施策は促進しその経済圏を確保する。
二、枢軸陣営の勝利が明らかとなれば、南方武力行使をおこなう。
三、独ソ戦の推移が日本に極めて有利に進展すれば、武力行使によって北方問題を解決する。
四、米国参戦の場合、三国同盟義務遵守。武力行使の時機方法は自主的に決定する。『大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯』第四巻より引用
ここで重要なことは、田中の推す渋柿論での北進策が否定されたことです。「好機を作為し捕捉する」の一文を大綱に入れることを田中は最後まで主張しましたが、多くの反対にあい、ついに断念しています。
北進については渋柿論が抑えられ、熟柿論で行くことが決まりました。南進にこだわった軍務局の作戦が功を為した結果です。
南方武力行使についても枷(かせ)がはめられています。武力行使をするのは、あくまで枢軸国側の勝利が明らかとなった場合のみとされました。ここで言う「枢軸国側の勝利」とは、ドイツがソ連を打倒し、さらにイギリス本土の攻略に成功した場合です。あえてハードルを高く設定することで、武力行使については慎重を期す従来の方針を踏襲したと言えるでしょう。
結局のところ、北進するにしても南進するにしても独ソ戦の戦況次第であることに変わりがなく、基本的には独ソ戦の行方を静観しながら身の振り方を考えるとの結論です。
ただし、北進か南進かという問題を先送りする代わりに仏印とタイを日本側に取り込むこと、そこから資源を確保できる体制を築くことを優先することとしました。
参謀本部にしても軍務局にしても、大東亜共栄圏を築く方針には変わりありません。仏印とタイを日本の経済圏に組み入れることは、大東亜共栄圏を構築するために欠かせないことでした。その具体的に意味するところは南部仏印に軍を進駐させることです。
問題は南部仏印進駐を武力を行使してでも強行するのか、それともあくまで外交手段によって達成するのか、2つのうちどちらを選ぶかでした。
英米不可分の認識が共有されてからは、陸海軍共に「対米戦はなんとしても回避すべし」の方針で定まっていました。4月に決定された「対南方施策要綱」においても、南方への武力行使は自存自衛の場合に限ることとされ、それ以外の理由による積極的な武力行使が放棄されたことは既述の通りです。
▶ 関連リンク:2.北部仏印進駐の余波 – その10.南進策の修正
その方針を堅持するならば、南部仏印への進駐についても自存自衛以外の武力行使は当然許されません。
南部仏印が軍事的に見て英米蘭領への攻撃拠点ともなりうることから、武力を用いての進駐はアメリカとの間に新たな戦争が起きる可能性があると危惧されていました。
ところが、この年の6月、南部仏印への進駐を巡って陸海軍と外務省(松岡)が対立し、その結果として武力行使も辞さない進駐が日本の方針として定まることになったのです。まさに急転直下です。
外交交渉が失敗したときには武力を行使してでも南部仏印進駐を果たす、その際「英米戦ヲ辞セズ」との勇ましい一文が新たな国策として定められました。
「対米戦はなんとしても回避すべし」で一致していたはずの軍部が、わずかの間に「英米戦ヲ辞セズ」と態度を豹変させたのはなぜでしょうか?
日本の運命を決した南部仏印進駐を巡る駆け引きについて追いかけてみます。
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