第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部4章 独ソ戦(9/12)ドイツはなぜソ連に侵攻したのか?ヒトラーの本当の狙い
日本はなんのために戦ったのか
その9.もし対ソ戦を始めていたら……
海外「戦争で日本に勝ったのに…」 日本との生活水準の差にロシア人から落胆の声より引用
日本が度ソ開戦に併せてソ連に侵攻していたなら、歴史は変わっただろうか?
ー 日本の北進を阻止せよ! ー
北進か南進かで意見が割れた日本は最終的に南進を選び、それがためにアメリカとの戦争に突入していきました。では、もし当時の日本が南進ではなく北進を選んでいたならば、歴史はどう変わっていたのでしょうか。
この「もしも」が日本に留まらず世界中で取り沙汰されることには、理由があります。それは、イギリスの首相チャーチルの次の言葉に集約されているといえるでしょう。
「日本は第二次世界大戦で勝者となれる唯一最大のチャンスがあった。それは独ソ戦勃発時に北進し、ドイツと組んでソ連を東西から挟み撃ちすることだった」
チャーチルに限らず、当時を生きた多くの識者や軍人が同じ趣旨の発言をしています。
実際、独ソ開戦後に米英が最も恐れたことは、日本がドイツと歩調を合わせてソ連に侵攻することでした。そこで米英は力を合わせ、日本の北進を阻むための行動をとっています。
日本の南部仏印進駐に対し、アメリカが遂に石油の対日全面禁輸を発動したのも、日本陸軍のソ連侵攻を食い止めるためとの論があります。
今日から振り返るならば、南部仏印進駐に際してアメリカが日本と一戦交える覚悟で石油の禁輸に踏み切ったことには、もっともらしい説明がなされています。南部仏印進駐が日本軍による南進の始まりと捉えたアメリカが、日本軍によるこれ以上の南進を防ぐために思い切った経済制裁に踏み込んだ、とする理由付けが、その代表です。
しかし、当時の日本の軍部には南部仏印進駐が南進の始まりとする空気など生まれていません。対米戦争になることを恐れた陸海軍にとって、南部仏印進駐は南進の終わりであり、そこからさらに南に出ていく気などなかったことは、当時の軍関連の日誌や多くの証言から明らかです。
日本がさらなる南進に向かうのは自存自衛のためにやむを得なくなったとき、即ち石油の全面禁輸が発動され、解除される見込みがなくなったときのみに限定されていました。
石油の対日全面禁輸を発動すれば、日本が蘭印の石油を取りに行くことで戦争になる可能性が高いことは、アメリカは十分に認識していました。だからこそアメリカの軍備が整うまでは対日戦になることを避けるべく、石油の全面禁輸だけには踏み込まなかったのです。
しかし、アメリカは従来の方針をかなぐり捨て、ついに石油の対日全面禁輸という手持ちの最後にして最強のカードを切りました。
十分な軍備が整う前に日本と戦争になる危険を冒してでも、石油の禁輸を実行する必要にアメリカは迫られていたことになります。
大きなリスクを背負い込んでもアメリカが阻止したかったこと、それは日本軍によるソ連侵攻でした。
南部仏印進駐によってアメリカが石油の禁輸という最後のカードに手をかけるとは、当時の日本の政府・軍部のなかで予想できた者はほぼ皆無です。松岡外相は懇談会にてその趣旨の予言をしていますが、彼のその後の言動からして、本気でそう思っていたかどうかは怪しいと考えられています。
日本側の予期していない強い制裁にアメリカが踏み込んだことをもって、日本側の認識の甘さが度々指摘されています。読み違いがあったことはたしかであり、後世からの誹(そし)りは免れませんが、されど逆にこうも言えます。
これまでの流れからして「南部仏印進駐によってアメリカが石油の禁輸に打って出るとは考えられないことだった」、突然態度を豹変させたアメリカの方がおかしい、と。
つまり、石油禁輸は南部仏印進駐に対する制裁の形をとって発動されたものの、それを額面通り受け取るのでは不自然さをぬぐえません。とすれば、アメリカが「南部仏印進駐に対する制裁」という形をとったのは単なるカモフラージュに過ぎないのではないか、アメリカがこれまでの脈絡を断ってまで突如石油禁輸という強い手段に訴えたことには、他に理由があったのではないかと考えられます。
そこから「北進を防ぐための石油禁輸」といったキーワードが浮かび上がってきます。
日本が対ソ戦に慎重な姿勢であること、熟柿論が採用されたことは、アメリカも情報を得ています。それでも満州に関東軍特種演習の名の下に85万の軍隊が張り付いていることは、アメリカにとって気がかりなことでした。
満州事変を見ても明らかなように、政府や軍中央が制止しようとも現地軍の勇み足によって不測の事態が生じ、その気がなくても日ソ両軍の間で戦いが始まる恐れは十分にありました。
アメリカとしては日本軍が間違っても北進しないように手を打つ必要があったのです。そこで発動されたのが、石油の対日全面禁輸です。その結果、日本が北進を選ぶ自由は失われるに至りました。
次節にて詳しく見ていきますが独ソ開戦後の日米交渉は、日本の北進を防ぐためという意味合いが強くなっていきます。日本を北に向かわせないように外交交渉を長引かせることが、アメリカの意図したことでした。
このように、チャーチルとルーズベルトが日本の北進を恐れ、日本が北進ではなく南進を選ぶように誘導したことは、多くの研究書で指摘されています。
ー ヒトラーの遺言に見る「もし日本が……」 ー
ヒトラーが日本の着物を着てる写真が発見され海外で話題に! 海外の反応。より引用
ヒトラーもまた、日本がドイツと共に対ソ戦に踏み込んでくれていれば、といった趣旨の言葉を残しています。ドイツは独ソ開戦後、日本に対して何度も対ソ戦を始めるようにと要請してきました。日本が中ソ中立条約を盾にそれに応じなかったことは、ヒトラーにとって大いに悔やまれることでした。
少し長くなりますが、ヒトラーが亡くなる直前に残した言葉を引用します。
「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係はさらに密接な、そして堅固なものとなるであろう。日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。
他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」(1945年2月18日)
『ヒトラーの遺言: 1945年2月4日―4月2日』マルティン ボルマン著(原書房)より引用
少なくとも当時の世界各国は、独ソ開戦後に日本軍によるソ連侵攻があるか否かに大きな関心を寄せていました。
米英が日本の北進を恐れ、それを阻止するために動いたこと、ヒトラーが遺言にて日本がついにソ連に侵攻しなかったことを嘆いていること、こうしたことから「もし日本が北進をしていたなら」といった if は、今でも世界的な関心を集めています。
「もしも」の世界を垣間見る前に、日本が北進を断念したことで独ソ戦にどのような影響を与えたのかを、まずは見ていきます。
ー 20世紀を決した史上最大の戦闘の行方 ー
6月22日は独ソ戦(大祖国戦争、バルバロッサ作戦)の開戦日~その関連ツイートより引用
独ソ戦の鍵を握ったのは極東ソ連軍のモスクワ到着だった。その結果、ソ連がドイツに勝利した
独ソ開戦後、ドイツ軍は不意打ちを食らったソ連軍を各戦線で撃破し、あっという間にレニングラードを包囲しました。
ドイツ軍は北・南・中央の三方面から一斉にソ連領内へと侵入しています。このなかで最も苦戦したのは南部方面軍でした。北方と中央方面軍が快進撃を続けるなか、南部方面軍はソ連軍の徹底抗戦にあい、多大な被害を出しました。
しかし、8月に入るとスモレンスクを陥落させた中央方面軍が南部へと回ったことによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連軍が壊滅し、9月30日にはついにモスクワ攻略を開始しています。
ただし、ドイツ中央方面軍が南部方面軍を助けたことは、戦略的なミスであったと指摘されています。スモレンスクを陥落させた中央方面軍が、そのままモスクワに向かっていれば、一ヶ月早くモスクワ攻略戦が始まっていたことになります。
そうなれば、モスクワが陥落していたかもしれないと言われています。なぜならモスクワ攻略がひと月遅れたことにより、ドイツ軍はふたつの大きな災厄に見舞われたからです。
ひとつは例年より早い冬将軍の到来です。かつて19世紀にナポレオン率いるフランス軍がロシアに侵攻した際、ロシアの厳しい冬の気候に阻まれ敗れたことは有名ですが、そっくり同じことが20世紀の独ソ戦においても繰り返されました。
クレムリンまであとわずか十数キロのところに迫ったドイツ軍の行く手を阻んだのは、激しい降雪と積雪によるぬかるみでした。進撃が止まったドイツ軍に対してソ連軍は猛抵抗を続け、戦況は長期戦を余儀なくされたのです。
短期決戦を目論んでいたドイツ軍に冬支度の用意はできていませんでした。前線へ冬装備を配送したくても冬将軍に阻まれ、滞るばかりです。
ソ連は冬将軍という最大の味方の加勢により、ドイツの進撃を止めることに成功したのです。
ドイツ軍にとってのもうひとつの災厄は、冬将軍のために苦戦していたところへソ連軍の新たな精鋭部隊が戦場に到着したことでした。
この新手の部隊の出現は、ドイツ軍にとって想定外のことでした。ドイツの諜報機関はソ連軍がもはや予備兵力を持っていないため、これ以上の大規模な反攻に転じることはできないと読んでいたからです。
ところが突如、精鋭18個師団、戦車1700両、飛行機1500機以上という戦備の充実した機甲軍団が目の前に現れたのです。その正体はシベリアから駆けつけた極東ソ連軍でした。
もちろん極東ソ連軍の兵力についてはドイツ諜報機関とて正確に把握しています。しかし、極東ソ連軍は満州にいる85万の日本軍と対峙しており、そこから一歩も動けないはずでした。それなのに、突然モスクワ戦線に出現したことはドイツ軍を驚かせました。
極東ソ連軍が戦線に加わったことでソ連軍は反撃に転じ、ついにドイツ軍をモスクワから追い払うことに成功しました。こうしてドイツ軍のモスクワ占領は失敗に終わったのです。
もし、ドイツ軍がもう一ヶ月早くモスクワ攻略戦を始めていたならば、冬将軍にあうこともなく、また極東ソ連軍がモスクワに駆けつけることもできず、歴史が変わっていたかもしれません。
ドイツによるモスクワ攻略戦は「20世紀を決した史上最大の戦闘」とも呼ばれています。第二次世界大戦の趨勢(すうせい)を決定した大きな転換点であったことは、間違いありません。
ドイツ軍がモスクワ占領に失敗した原因となった極東ソ連軍の出現には、実は日本が北進を断念したことが大きく影響しています。
もし、日本が北進をしていれば、あるいは北進に踏み切らないまでも北進の余地を残しておきさえすれば、極東ソ連軍の大規模なモスクワ移送はできなかったはずです。
しかし、実際には日本が南進を選び北進を捨て去ったことによって極東ソ連軍の移送が可能となり、ドイツ軍のモスクワ占領が失敗する原因のひとつになったのです。
では、なぜソ連は日本が攻撃を仕掛けてくる気はないと確信できたのでしょうか?
そこには日本における20世紀最大のスパイ事件が絡んでいます。
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