第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部4章 独ソ戦(10/12)もし日本がソ連に侵攻していたなら、第二次世界大戦で勝者になれたのか
日本はなんのために戦ったのか
その9.もし対ソ戦を始めていたら……
「日米を戦わせよ」1920年のレーニン演説とスターリンの謀略より引用
コミンテルンを指導したスターリンとレーニンの石像
ー 不戦条約は諸刃の剣 ー
図らずも独ソ開戦となり、ソ連は三国同盟に基づいて日本が侵攻してくるのではないかと警戒しました。日ソ中立条約は結ばれているものの、それがただの紙切れに過ぎないことは、何度も条約を破棄しては周辺国への侵攻を繰り返してきたソ連が一番よくわかっています。
ことに関特演と称して満州に85万の大兵団が配置されたことは、ソ連にとっての脅威でした。ソ連は1945(昭和20)年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州や北方領土に侵攻しましたが、その際の大義名分として主張したのが「関特演」でした。
すなわち、日本の「関特演」に備えるため、極東ソ連軍は独ソ戦が始まっているにもかかわらず師団の移送ができなかった、これは中立条約に反する行為である、したがって「関特演」が行われた時点で日ソ中立条約は失効している、との主張です。
ソ連側の主張は東京裁判にて認められています。つまり、国際法の上ではソ連に非がなかったことになります。もともとソ連に対日参戦を盛んに勧めたのはルーズベルトとチャーチルである以上、東京裁判でそのように判定されるのは当然と言えるでしょう。そこに正義があるか否かは、また別の問題です。
なお作家の半藤一利は『ソ連が満州に侵攻した夏』のなかで、ジャン・バコン著『戦争症候群』を引用し、「紀元前一五〇〇年から紀元一八六〇年までのあいだに、八千四百の条約が結ばれたが、その寿命の平均は二年であった」と紹介し、「不戦の誓いは脆いのである」と結んでいます。
古今東西、中立条約や不可侵条約の類いは国益の前に易々と破棄されてきたことは、歴史が教える事実です。
日本もまた北進か南進かで意見が対立した際、日ソ中立条約に違反することに関しては、ほとんど顧みられていません。もっとも、信義を重んじる昭和天皇はソ連と交わした中立条約に鑑み、ソ連の侵攻には異を唱えたとされています。「中立条約の破棄は天皇の名誉を汚すことになる」と考え、北進を禁じ手と主張した政治家や軍人がいたことも事実です。
ただし、だからといって関特演があったから日ソ中立条約は無効になったとのソ連の主張が正しいわけではありません。国際間の取り決めについては歴史的な事実がなによりも重要視されるからです。
事実の前にいかなる計画があったとしても関係ありません。実際に行ったか否かがすべてです。計画のみで国際間の取り決めが無効になるのであれば、そもそも条約は成り立ちません。
日本は日ソ中立条約を守り、ソ連は一方的に破棄して侵攻してきた、その歴史的な事実は永久に変わりません。国際的な信義に照らしてどちらに非があるかは、考えるまでもないことでしょう。
「勝てば官軍」のごとく、敗戦国の日本はなにかと理不尽なまま悪の烙印を押されていますが、後世から振り返るならば、その多くが是正されていると信じたいものです。
ー スパイ・ゾルゲの情報がソ連を救った ー
コミンテルンは国境を超えて、スパイ・ゾルゲを支援する 二人の総理大臣を輩出した名門一族に潜入したスパイより引用
ゾルゲ事件の根は深く、その全貌は未だ闇のなかにある
中立条約に信をおけない以上、ソ連が日本の北進を警戒したのは当然です。日本が北進に本当に踏み切るのか否かを見極めることは、ソ連にとって国家の興亡を左右するほど重要なことでした。
この諜報活動のためにコミンテルンから東京に送り込まれたのが、ドイツ人を父にロシア人を母にもつリヒャルト・ゾルゲでした。
ゾルゲはドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員として活動しながらナチス党員になりすまし、ドイツのオット駐日大使に接近すると大使の信任を得て、ドイツ大使館に自由に出入りすることに成功します。
ゾルゲは単なるスパイと言うよりも、優れた情報分析能力をもっていました。ゾルゲの残した手記からは、当時の日本を中心に世界の情勢を正確に分析していたことがうかがえます。
オット独駐日大使がゾルゲを頼りにしたのも無理からぬことでした。
ドイツ大使館に出入りを許されたゾルゲは、多くの極秘情報をソ連にもたらしました。なかでも6月1日の時点でドイツがまもなくソ連に侵攻するとの情報は、貴重でした。
しかし、先にもふれましたが、当時はゾルゲが二重スパイと疑われていたため、この情報は活かされませんでした。
ところがゾルゲの情報通りにドイツ軍によるソ連侵攻が行われたことで、ゾルゲに対する評価は一変します。さらに、ゾルゲの名を高めたのは、7月2日の御前会議と9月6日の二度目の御前会議の内容をソ連に流したことです。
御前会議の内容という極秘情報をゾルゲが取得できたのは、近衛首相の側近のなかにゾルゲの協力者が潜り込んでいたからです。朝日新聞記者の尾崎秀実でした。
wikipedia:尾崎秀実 より引用
【 人物紹介 – 尾崎秀実(おざき ほつみ) 】1901(明治34)年 – 1944(昭和19)年
昭和時代前期の新聞記者・中国問題評論家・社会主義者。東京大学卒業後、東京朝日新聞社に入社。特派員として上海に赴く。中国問題に詳しく、日本の軍事行動を中国侵略として批判した。上海時代にゾルゲと知り合い、ゾルゲの中国における情報工作に協力。帰国後、1934年にゾルゲと再会してゾルゲ諜報機関に参加。西安事件の評論によって注目され、以後傑出した中国評論家として独自の東亜協同体論を展開した。朝日退社後、第1次近衛内閣では満鉄調査室の嘱託を務め、中国の現状を科学的に分析することで近衛文麿のブレーンとなった。ゾルゲ事件発覚によって逮捕され、ゾルゲとともに刑死。
尾崎から極秘情報を得たゾルゲは、その内容を正確にソ連に伝えました。ことに9月6日の御前会議のあと、「日本の対ソ連攻撃は今ではもはや問題外」と打電し、日本が南進を決めたことで対ソ戦が中止になったことを伝える情報は、ソ連にとって値千金でした。
かつて独ソ開戦を伝えるゾルゲ情報を握りつぶしたソ連ですが、今度はゾルゲ情報を信じました。ゾルゲ情報によってスターリンは、満州に相変わらず日本の大兵団が張り付いていても最早ソ連侵攻がないことを確信し、極東ソ連軍を安心してモスクワに移送できたのです。
そのことがモスクワの戦いでのソ連勝利に貢献したことは、前述の通りです。まさにゾルゲが命がけで取得した情報こそが、ソ連を救ったといえるでしょう。
ソ連国内においてもゾルゲは高く評価されており、1964(昭和39)年には「大祖国戦争勝利の英雄」に祭りあげられ、「ソ連邦英雄勲章」が授与されています。
ゾルゲ事件は9月6日の御前会議直後の27日に発覚し、事件関係者が次々に逮捕されるなか、ゾルゲと尾崎も10月に逮捕されました。
その後、ゾルゲと尾崎は1944(昭和19)年、ロシア革命記念日にあたる11月7日に絞首刑に処されています。
ー 日米に巣食ったコミンテルンによる謀略 ー
コミンテルンの真似をしても、失敗する北朝鮮・・・・・・より引用
コミンテルンの謀略とは、まさに「トロイの木馬」だった。共産党関係者は水面下に潜り込み、間接的に日米の政府や軍部に浸透していったとされる
ゾルゲ事件は日本を騒然とさせた最大のスパイ事件として有名ですが、コミンテルンが日本で行っていた活動における氷山の一角とされています。
共産主義に魅せられた識者や文化人は多く、マスメディアや政府・軍人のなかに深く入り込んでいました。たとえば当時の東京帝国大学は、マルクス主義者や隠れマルクス主義者を多く輩出していたことで知られています。そうしたエリート層のなかには、ソ連の工作員として活動した者も多くいたのです。
現在においても、当時のコミンテルンに繋がるエリート層の実態については正確に把握できていません。
しかし、共産主義に共感する彼らがコミンテルンの指示に基づき、日本が北進ではなく南進へ向かうように様々な活動をしていたことが知られています。
コミンテルンによる工作活動は日本ばかりではなくアメリカにも及んでいます。1995(平成7)年にアメリカ国家安全保障局(NSA)が「ヴェノナ文書」を公開すると、アメリカ中に衝撃が走りました。
「ヴェノナ文書」とは第二次世界大戦前後、アメリカ内に潜り込んでいたソ連のスパイたちがモスクワとやり取りした秘密通信を、アメリカ陸軍情報部が傍受し解読した文書です。
「ヴェノナ文書」を通して、日本の尾崎のようにコミンテルンに協力するアメリカ人が続々と判明しました。そのなかには200名を超える政府官僚の名がスパイ、あるいは工作員として含まれていたのです。
ルーズベルト政権に巣食ったコミンテルンの協力者たちは、当時のアメリカの政治・外交を恣意的にソ連有利となるように誘導したことがわかっています。彼らは日米戦争が起こるように謀略を巡らしました。この問題については次節以降にてもう少し踏み込んで見ていきます。
アメリカにしても日本にしても、共産主義にシンパシーを感じるエリート層が数多くいました。日本については北進を断念して南進策を選ぶように、彼らはマスコミ・政府・軍部を通して暗躍したのです。
もちろん日本が最終的に北進を断念し南進を選んだのは、コミンテルンによる謀略だけが原因ではありません。様々な要因のなかのひとつに、コミンテルンの活動が水面下で行われていた、ということです。
米英による意図的な誘導やコミンテルンによる工作活動など、日本軍を北には向かわせまいとするバイアスがかかっていたことは間違いのない事実です。
敵が嫌がること、即ち敵の弱点を突くことは、戦いにおける常道です。米英ソがこうまでして嫌がった日本の北進が当時行われていたなら、果たして世界はどうなっていたのでしょうか?
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