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    #76 近づく10月15日の期限と近衛内閣の崩壊

    中国撤兵をめぐる陸海軍の対立、開戦派と避戦派のせめぎ合いについて前回は紹介しました。今回は、いよいよ10月15日の期限が迫るなか、日本国内がどのように動いたのかを追いかけてみます。

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    日米開戦までのカウントダウン

    4-6.開戦か避戦か、中国撤兵をめぐる攻防

    その4.揺らぐ東条の決意

    - 東条は譲らず -

    陸海軍の意見をまとめるために、10月7日、東条陸相と及川海相との会談が開かれました。及川海相はまだ交渉継続の余地があるだけに、期限として設定された10月15日を延期してはどうかと提案しています。

    ● 開戦まであと62日 = 1941年10月7日

    ここでも東条は譲ることをせず、ハル四原則が九ヵ国条約の再現に等しいと主張しました。
    ▶ 関連リンク:第1部 3章 黄禍論と日本人差別(4/4)米国の対日戦争準備 オレンジ計画からワシントン会議まで

    さらに東条は満州事変や日中戦争へと日本が踏み込んだのは、(欧米列強が都合よく世界を支配するために押しつけてきた)九ヵ国条約体制を打ち倒すためであったとし、九ヵ国条約に代わる新たな体制を築くためにこそ大東亜共栄圏が確立されたのだと述べています。

    日本軍の中国駐屯は大東亜共栄圏を形成する上での核となるものであり、全面撤兵したのでは共栄圏の確立はありえない、したがって譲歩することはできないと、及川海相に迫りました。

    及川海相は東条陸相に押され、海軍としては9月6日の御前会議の決定を支持していくと述べるにとどまっています。

    この会談で東条は「勝利の自信はどうであるか」と及川に尋ねています。それに対する及川の答えは「それはない」でした。

    先述の福留軍令部作戦部長の「南方戦争に自信なし」の発言に次いで、及川海相までが対米戦に勝つ自信がないと答えたことは重大でした。緒戦に勝利できたとしても二、三年後のことは検討中だと、及川は正直に捕捉しています。

    海軍では対米戦を睨み図上演習が繰り返されていました。ところが、何度試してみても開戦から3年もすれば民需用船舶が皆無になるとの結論を得ていたのです。海軍は勝利のシナリオを描けずにいました。

    9月29日に図上演習のために上京した山本五十六連合艦隊司令長官も、永野軍令部総長に対し次のように述べたと『沢本日記』に綴られています。

    「日米戦は長期戦になること明らかなり。日本が有利なる戦いを続け居る限り、米は戦いを止めざるべきを以て、戦争数年に亘り、資材は消耗し、艦艇、兵器は傷き、補充には大困難を来たし、遂に拮抗し得ざるに至るベきのみならず、……国民生活は非常の窮屈を来し……(朝鮮、満州、台湾)の反乱常なく、収拾困難となること想像に難からず。かかる成算小なる戦いはなすべきに非(あら)ず」

    連合艦隊司令長官までが、対米戦を「なすべきに非ず」と意見具申しています。海軍としては勝つ自信があるとは、とてもではないが言えない状況でした。

    及川が「この場限りにしておいてくれ」と述べたことで、勝つ自信がないことは海軍としての公式な発言とはなっていないものの、海軍の弱気な姿勢に東条も不安を覚えたようです。

    陸軍内の日記によると、「かりに海軍に自信がないというならば、考え直さなければならない」と東条が述べ、9月6日の御前会議決定を見直すことを考えはじめたと記されています。

    7日の夜には再び近衛首相と東条陸相の会談が行われました。近衛は東条の考えが少しぶれてきたことを敏感にかぎつけたのか、9月6日の御前会議については再検討が必要であると主張しています。

    しかし、東条は立場上、同意するわけにもいかず、これを拒絶しています。最後に東条が「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」と述べると、近衛が「二千六百年の国体と一億の国民のことを考えるならば、責任の地位にあるものとして出来ることではない」と突っぱねた話は有名です。

    中国からの撤兵、及び10月15日の期限延長についても、東条はきっぱりと拒絶しました。

    - 揺らぐ東条 -

    近衛に対しては強硬派としての面を見せた東条ですが、海軍内で高まりつつある対米戦への不安は、東条の考えを次第に変えつつありました。

    さらに現に日中戦争の最前線にいる軍部首脳からは、対米戦を避けるべきとの声が東条のもとに寄せられていました。最前線で戦う彼らにとって、行き詰まる戦局に伴う士気の荒廃は切実でした。

    畑俊六支那派遣軍総司令官は、「すでに国民は戦争に倦(う)んでいるのだから、アメリカの要求を入れて日中戦争を解決すべきである」と東条に意見具申しています。

    日米交渉(18/36)近づく10月15日の期限と近衛内閣の崩壊 2
    wikipedia:畑俊六 より引用
    【 人物紹介 – 畑俊六(はた しゅんろく) 】1879(明治12)年 – 1962(昭和37)年
    明治-昭和時代前期の陸軍軍人。最終階級は元帥。教育総監・軍事参議官を経て、阿部・米内内閣にて陸相を務める。国内体制の強化と日独伊三国同盟を強硬進言するも、いれられなかったため、米内内閣を倒すために単独辞任した。支那派遣軍総司令官となり、ドイツ軍の対ソ攻勢に呼応して関東軍特種演習が発動されて対ソ戦が企図されると、「目下は鋭意支那事変解決に専念の要あり」と具申し、対ソ戦発動中止の一因を担った。戦時中は太平洋やビルマの戦いで日本軍が劣勢になる時期に中国戦線において大陸打通作戦を指揮、中国軍に大勝利を収め国民を喜ばせた。本土決戦に備え、第2総軍司令官となる。原爆投下時に広島にいたが奇跡的に難を逃れる。

    被爆直後から広島市内で罹災者援護の陣頭指揮を執り、広島警備命令を発令した。終戦間際、御前会議の開催に先立って元帥会議が召集された際、杉山と永野が主戦論を張るなか、畑のみは「担任正面の防御に就ては敵を撃攘し得るといふ確信は遺憾ながらなし」と率直に現状を説明、これが本土決戦の不可能を昭和天皇に確信させることになった。戦後は東京裁判にてA級戦犯として起訴されるも、弁護側証人として出廷した米内が徹底的にかばったため、死刑を免れ終身禁固の判決を受けた。6年間の服役後、仮釈放となる。畑はのちに「当時、後難をおそれ、弁護側の証人に立つことを回避するのが一般の雰囲気であったのに、米内大将は敢然(かんぜん)として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及と非難を物ともせず、徹頭徹尾(てっとうてつび)、私が米内内閣の倒閣の張本人でなかったことを弁護されたことは、私の感銘措く能わざるところであって、その高邁(こうまい)にして同僚を擁護する武将の襟度(きんど)は、真に軍人の鑑とすべくこの一時は米内大将の高潔な人格を表象して余りあると信じる」と語り、東京裁判でのこの米内の言動に終生深く感謝感動を忘れなかった。82歳没。

    梅津美治郎関東軍司令官も、「対米英戦争は国力の相違から見て絶対に勝算なし」と断じ、日米妥協が必要であると進言しました。

    日米交渉(18/36)近づく10月15日の期限と近衛内閣の崩壊 1
    wikipedia:梅津美治郎 より引用
    【 人物紹介 – 梅津美治郎(うめづ よしじろう) 】1882(明治15)年 – 1949(昭和24)年
    明治-昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍大将。支那駐屯軍司令官のとき梅津・何応欽協定を結ぶ。二・二六事件以降陸軍を掌握し、陸軍次官として粛軍人事と軍部の政治介入をすすめる。第1軍司令官・関東軍総司令官などを経て、陸軍最後の参謀総長に就任。硫黄島陥落後も戦争継続を主張、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議でも本土決戦を支持した。東京湾上のミズーリ号で大本営を代表して降伏文書に調印。A級戦犯として終身禁錮を宣告され、獄中病死。

    最前線に立つ軍部首脳からの対米戦反対、戦争回避の努力の要請を、東条としても無下にするわけにもいきません。

    10月8日、及川海相と会談した東条は、「支那事変にて数万の生霊を失い、見す見す之(これ=中国)を去るは何とも忍びず、但し日米戦とならば更に数万の人員を失うことを思えば、撤兵も考えざるべからざるも、決し兼ぬる所なり」と、その心情を吐露(とろ)しています。

    ● 開戦まであと61日 = 1941年10月8日

    これまでは日中戦争で亡くなった英霊のためにも中国からの撤兵はしないと頑な態度を貫いてきた東条ですが、対米戦となればさらに多大な犠牲が生じることを思えば、撤兵についても考えなければならない、と軟化していることがわかります。

    この時期、東条のなかに撤兵への迷いが生じていたことは、多くの手記が物語っています。

    このまま自然に推移すれば東条がやがては撤兵に同意することで日米交渉が進展し、戦争が回避されたかもしれません。

    ところが10月10日に陸軍にもたらされた一つの情報が、東条の態度を再び硬化させることになります。

    ● 開戦まであと59日 = 1941年10月10日

    「宮中、近衛、外務、海軍の連合陣で陸相を圧迫し、10月2日付米国覚書を鵜呑みにせんとの気配がある」との情報です。

    先述のように近衛首相と及川海相が連携していたことはたしかであり、天皇の意を汲む木戸と豊田外相も非戦に向けての努力を続けていました。

    10月9日には近衛と木戸が面談し、9月6日の御前会議決定は「再検討」を要すと意見の一致を見ています。『木戸幸一日記』によれば、日本が対米開戦を決意することなく、この先10年ないし15年の「臥薪嘗胆」により、国力の培養に専念すべきだと木戸が述べたとされています。

    宮中・近衛首相・外務省・海軍が非戦への決意を固めて動いていることに対して、陸軍が対米開戦を主張していることは事実であり、そこに対立軸が生じるのはやむを得ないことといえるでしょう。

    しかし、あからさまに東条一人を敵対視する情報を突きつけられては、東条としても面白くありません。

    『石井秋穂大佐回想録』には、「この情報は陸相の生来の闘争心を刺激したに違いない」と記述されています。

    これ以降、東条は再び強硬となり、9月6日の御前会議決定を遵守し、撤兵を拒否する姿勢を押し出すようになりました。

    日米交渉(18/36)近づく10月15日の期限と近衛内閣の崩壊4
    wikipedia:石井秋穂 より引用
    【 人物紹介 – 石井秋穂(いしい あきほ) 】1900(明治33)年 – 1996(平成8)年
    昭和期の陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。第16師団参謀・北支那方面軍参謀などを経て、陸軍省軍務局高級課員となり、陸軍側の担当者として多くの国策を起案した。日米開戦前の政策立案などにあたる。陸軍きっての理性派として避戦を望んだが、日米交渉の失敗により戦争政策を進めるよりなかった。国策を起案したことに対して、後年「わしらはね、こんなばか者だけどね、わしらは真っ先に、第一弾をやれば、それは大切な国策になるんですな。

    そして大分修正を食うこともありますけど、まあそのくらい重要なものでした。 それみんな死んだ。生きとるのはわしだけになった。 そういう国策をね、一番余計書いたのはわしでしょう。やっぱりわしが第一人者でしょう。罪は深いですよ。」と語っている。

    その5.近づく10月15日の期限

    - 海軍は首相に一任 -

    期限として設定された10月15日が迫るなか、いよいよ陸海軍・政府ともに慌ただしい動きを見せることになります。

    ことに10月11日に野村大使から、中国の駐兵問題について日本側が譲歩しない限り、首脳会談が実現する見込みは絶対にないとの電文が届くと、陸海軍では対応をめぐって意見が分かれました。

    ● 開戦まであと58日 = 1941年10月11日

    陸軍ではもはや日米交渉に綾なしとして開戦決議で一致を見たものの、武藤軍務局長は「開戦決意の下に対米強硬外交を行うべし」として、なお外交に活路を見出す姿勢を打ち出しています。

    開戦派に染まる参謀本部では、そんな武藤の動きに対して「陸軍の態度を晦冥(かいめい=暗闇)に陥れている元凶は武藤だ」と『機密戦争日誌』にて憤慨をぶつけています。

    期限を前に武藤は陸軍内で孤独な戦いを続けていました。対米開戦にはやる陸軍を抑えるためには、対米戦の見通しが立たないことを海軍から正式に認めてもらうよりないと、武藤は考えました。

    東条陸相にしても及川海相から対米戦に勝つ自信がないと聞かされたことで、中国からの撤兵を考え出したほどです。対米戦の主役が海軍であることは明らかなため、海軍に勝算がないと言われては陸軍としても声高に対米開戦を叫ぶわけにもいきません。

    しかし、その発言は非公式なものであったため、陸軍内の主戦派を説得できるほどの力はもっていませんでした。だからこそ武藤は、海軍から公式に戦争に反対することを明言してほしいと望んだのです。

    富田内閣書記官長の回想を綴った『敗戦日本の内側』によると、11日の午後、武藤が富田に対し「海軍が本当に戦争を欲しないなら、陸軍も考えねばならぬ。……総理の裁断ということだけでは陸軍部内を抑えることは到底できない。しかし海軍が、この際は戦争を欲しないと公式に陸軍に言ってくれば、若い連中も抑えやすい。海軍がそういう風に言ってくるように仕向けてもらえないか」と申し入れたとされています。<注釈- 4-6-1>

    <注釈- 4-6-1>
    この回想の日付については10月11日と14日説があり、見解が分かれています。佐藤賢了軍務課長の回想『東条英機と太平洋戦争』では、10月11日のこととされています。

    その夜、富田は及川海相を訪ね、武藤の懇願に基づき「明日の会談において海軍から交渉継続、戦争回避の意思表示をしてもらいたい」と依頼しました。

    しかし、及川はこれをやんわりと退けています。及川らは避戦派であり、近衛首相を助けると以前から言っています。そうであれば同意しても良さそうなものですが、海軍には海軍としての譲ることのできないプライドがありました。

    及川は海軍として「戦争できぬ」などとは言えない、戦争する、しないは政治家の決定することであって、すると決まればどんなに不利な状況であっても戦うのが軍部の在り方である、ゆえに明日の会議では外交交渉を継続するかどうかを総理の決定に委ねたい、と述べています。

    及川の発言は十分に理に適ったものである反面、戦争回避の逃げ口上であることも、またたしかといえるでしょう。

    海軍が戦争に反対することを公式に明言したとなれば、その判断がもとで後に日本が不利な状況に陥った際の責任を、海軍が背負い込むことになります。自分たちの組織を守るために曖昧な態度に徹する「事なかれ主義」が幅を利かせたことは、このときの海軍にも当てはまりそうです。

    - 荻外荘会談 -

    陸海軍の駆け引きを経て、10月12日、近衛の私邸である荻外荘にて五相会談が開かれました。あえて統帥部を招かずに五相だけで会談をもったのは、四相による東条陸相の説得を図ったためです。参加したのは近衛首相・豊田外相・東条陸相・及川海相・鈴木企画院総裁の五人です。

    ● 開戦まであと57日 = 1941年10月12日

    日米交渉(18/36)近づく10月15日の期限と近衛内閣の崩壊3
    wikipedia:鈴木貞一 より引用
    【 人物紹介 – 鈴木貞一(すずき ていいち) 】1888(明治21)年 – 1989(平成元)年
    大正-昭和時代の軍人・政治家。最終階級は陸軍中将。通称「背広を着た軍人」。中国駐在武官補佐官・陸軍省軍務局支那班長などを経て内閣調査局調査官に就任。戦時体制への移行を政策的に先導した。興亜院政務部長を務めた後、予備役となる。第2次・第3次近衛内閣と東条内閣で国務大臣企画院総裁として、第二次大戦終結直前まで戦時統制経済をすすめ、戦時総動員体制確立に大きな役割を果した。戦後はA級戦犯として終身刑を宣告されるも、のち赦免。

    自民党からの度重なる出馬要請を断り、佐藤栄作のブレインほか、岸信介や福田赳夫・三木武夫など自民党の実力者から保守派の御意見番として慕われ、戦後日本の政財界に多大な影響を与えた。晩年は世間と一切の交流を断つ静かな余生を送り、100歳で没した。A級戦犯に指定されたことのある人物としては、唯一平成まで存命した最後の生き残りであった。

    東条以外の4人は交渉推進を図ることで意見が一致していました。会談に先立ち外務省で作成された新たな譲歩案を認めるように東条を説得することが、荻外荘会談の目的でした。

    譲歩案は、かねてより近衛が主張するように建前は全面撤兵とし、あとから駐兵を勝ち取る「名を捨てて実をとる」内容になっていました。具体的には二年以内に中国から撤兵を完了することとし、駐兵については日中間で新たに協議をした上で地域と期間を限定して実行することとしました。

    その際、地域は北支・蒙疆(もうきょう)の一部と海南島があげられており、期間は五年間と設定されています。

    4人がかりで東条の説得にあたったものの、すでに東条外しの情報を得ていただけに東条はますます意固地になり、一切譲ろうとはしません。

    近衛らは駐兵問題さえ何とかすれば日米交渉がまとまる可能性があると説きましたが、東条は「アメリカの態度は自ら妥結の意思なし」とし、今後も妥結の見通しはないと突っぱねました。

    及川海相は前夜の打ち合わせ通りに、外交を続けるか戦争をするかは「総理が判断してなすべきもの」と発言し、近衛に下駄を預けます。

    対して東条は総理の判断といえども、外交で妥結する確信がないのであれば受け入れられないと述べています。

    さらに東条は「統帥ハ国務ノ圏外ニアル」と、語気を強めました。戦争に関する統帥権は総理にはない、天皇を頂点とする統帥部にのみ権限があると主張したのです。

    それゆえに「総理が決断をしても同意はできぬ」と東条は言い切っています。

    近衛は「今ここでどちらかに決めるというならば、外交でやるといわざるを得ない。戦争には自信がない。戦争するなら自信ある人にやってもらうしかない」と外交継続を主張しましたが、東条はそんなことは国策遂行要領を決定するときに論ずべき問題であって、9月6日の御前会議で決した以上は、戦争に訴える以外にないと反論しています。

    杉山メモによると最後に東条は、中国駐兵は陸軍の生命であって一歩も譲れない、日中戦争の終末は駐兵に求める必要がある、その駐兵期間は「永久」であると主張したとされます。

    四対一の荻外荘会談においても、東条を説得するには至らなかったのです。

    - 近衛内閣に渡す引導 -

    荻外荘会談の2日後の14日の閣議にて、東条は思い切った行動に見ます。

    ● 開戦まであと55日 = 1941年10月14日

    これまでの慣習として日本では、閣議の際に「国策」の全文を知らせないことが一般的でした。当時の日本の事実上の最高決定機関は連絡会議であって閣議ではありません。機密保持のために、閣議にて国策のすべてを明かすことは避けられてきたのです。そのため、日米交渉の詳細については、これまで一般閣僚には知らされていませんでした。

    ところが、東条はあえてこの原則を破り、これまでの経過をすべて白日の下にさらしました。日米交渉が暗礁に乗り上げ、妥結の見込みがないなか外交交渉を継続するのか、それとも開戦かの瀬戸際に立たされていることを初めて聞かされた閣僚たちが、大きな衝撃を受けたことは指摘するまでもないでしょう。

    東条は閣僚を前に、次のように演説したとされます。

    「日本は支那事変において数十万の死傷者を出し、これに数倍する遺家族を擁し、百万の軍隊単位と一億国民とは、戦場において銃後においてともに辛苦と戦い、かつ国幣を消費すること数百億円に達した。しかも終戦には非賠償非併合という寛容なる態度を以てのぞまんとす。ただ駐兵によって事変の成果を結実せんことを要求するのみである。これを失えば、満州の存在を危くし、朝鮮の統治も動揺するを保し難い。撤兵を看板にして駐兵の実を挙げんとするごときは、事実上不可能なるのみならず、軍の士気を破壊するものにして断じて承認するわけには行かぬ。駐兵は心臓である。譲歩に譲歩を重ね、そのうえさらに心臓ともいうべき駐兵をも譲ることは、結局は降伏と択ぶところなく、日本帝国の断じて譲り得ない生命そのものである云々」

    軍閥日本の興亡3』伊藤正徳著(潮書房光人新社)より引用

    東条は強硬に駐兵を主張しています。中国駐兵は陸軍にとっての心臓であるとし、アメリカの求めるがままに撤兵に服したならば、それは降伏も同然であると断じています。全面撤兵をすれば満州の存続さえ危なくなる、満州事変前の日本に今さら戻るわけにはいかないと決意の程を語っています。

    東条の演説は近衛首相に対米開戦決定を迫るものでした。閣僚たちは東条の勢いに圧倒されたのか、沈黙を守るのみです。

    さらに東条は閣議後に、杉山参謀本部総長らに「陸軍は引導を渡したるつもりなり」と語っています。

    東条は近衛首相と会うと感情的になるとの理由をあげ、今後はもう近衛首相とは話し合わないとも宣言しています。

    それは、近衛首相と東条陸相が合意するためには、近衛が東条の言い分を認めて開戦決意を表明するよりないことを意味していました。

    東条の態度が頑なであったことはたしかですが、9月6日の御前会議にて日本の進むべき道を決めた以上は、その決議に従うことには理があります。

    それでも開戦決議が下せないのであれば、9月6日の御前会議での決議を撤回するよりなく、そうなれば決議した近衛内閣が責任をとる必要があることも、また道理です。

    いよいよ期限として定められた10月15日を迎え、近衛内閣は正念場を迎えていました。戦争を避け外交交渉を継続するのか、それとも開戦かを閣議にて決定しなければなりません。

    閣議の議決は戦前も今も変わりなく、多数決ではなく、全員一致によるとされています。ところが東条陸相が離反した以上、もはや全員一致による議決を下すことができない状況でした。

    当時の首相には閣僚を更迭する権限がないため、陸相を東条から他の者に変えることもできません。

    苦境に立たされた近衛首相が選んだのは、内閣総辞職でした。閣議の議決ができないとなれば政局が滞るだけに、総辞職はやむを得ない選択だったと言えるでしょう。

    10月16日、第三次近衛内閣は総辞職しました。それは、近衛が熱望した日米首脳会談が完全に頓挫したことを意味しています。

    ● 開戦まであと53日 = 1941年10月16日

    グルー米大使やクレイギー英大使が、このままアメリカが首脳会談を拒絶し続ければ、和平実現のために尽力している近衛内閣が倒れ、日米和平の道が閉ざされると何度も警告した通りに事態は進んでいました。

    その間、アメリカは近衛内閣を助けるための支援はなにひとつ実行していません。度重なるグルー米大使からの要請に対して、ハルは「日本になにも答える、必要はない」と打電し、近衛内閣の崩壊を黙って見続けました。

    近衛内閣の後に軍部内閣が誕生することは、アメリカも十分に予想しています。その意味では近衛内閣の崩壊は、アメリカの望むところであったのかもしれません。

    こうして近衛内閣が倒れたことにより、日本は新たな政権にて難局を乗り切ることになりました。近衛内閣の次に誕生したのは、東条内閣です。

    開戦派の首領としての役割を果たしていた東条陸相が首相になったからには、まさに開戦のための準備内閣ではないかといぶかりたくもなりますが、事実は逆です。東条内閣は避戦を目的に組閣された内閣です。

    こうしたねじれ現象を惹起(じゃっき)せざるを得なかった経過については、次回にて紹介します。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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