第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→(2/5)ユダヤ人を救え!6千人を救った杉原千畝の『命のビザ』
5.日本はなんのために戦ったのか
5-1.三国同盟に託した日本の行く末
その4.三国同盟締結までの道のり
ー 欧州の天地は複雑怪奇なり ー
wikipedia:独ソ不可侵条約より引用
条約に調印するソ連外相モロトフ、後列の右から2人目はスターリン。敵対関係にあった両国による独ソ不可侵条約の締結は世界を驚かせた。
平沼内閣になっても、状況は変わりませんでした。陸軍と他の四相との対立の溝が埋まらないまま近衛内閣に次いで内閣分裂が危ぶまれるに至り、「ソ連対象の場合は武力援助をするが、英仏対象の場合は武力援助およびその程度は、一に状況による」という妥協案をもって解決を図ることになりました。平沼はこのことを昭和天皇に奏上しています。
しかし、それでもドイツは同意しません。状況によって参戦するという曖昧(あいまい)な表現を嫌い、はっきりした参戦条項を入れるべきと主張して譲らなかったのです。
振り出しに戻り、日本側は再び同じ議論を繰り返すだけで結論には至らず、いたずらに時間だけが過ぎていきました。そのとき、衝撃的なニュースがもたらされます。
1939(昭和14)年8月、ドイツがソ連との間に不可侵条約を結んだというニュースです。敵対関係にあったドイツとソ連が手を組むという衝撃的なニュースに世界がどよめきました。
ことにソ連を仮想敵国とした同盟をドイツとの間に結ぼうと、ドイツとの妥協点を探していた日本にとっては、驚天動地の「まさか!」でした。
衝撃を受けるとともに、ドイツに対する怒りが日本中を包み込みました。独ソ不可侵条約の締結は、日本に対する明らかな裏切り行為だったからです。
もともと日独防共協定は、ソ連の共産主義思想が全世界に波及することを恐れ、日本とドイツがその防波堤となるべく結んだ条約です。それにもかかわらずドイツがソ連と不可侵条約を結ぶのは、防共協定の趣旨に完全に背反する行為でした。
しかも、日本はノモンハンでソ連軍と死闘を続けている最中です。これでは味方と思っていたドイツに笑顔のまま背中を刺されたも同然といえるでしょう。
昨日までの敵が友となり、昨日までの友が敵になるという戦国乱世のような状況が当時の世界を覆っていました。
思いもかけない裏切りにより、ドイツとの盟約の話は一瞬にして吹き飛びました。すでにドイツとの同盟について天皇に奏上していた平沼首相は責任を痛感し、内閣総辞職を決意します。
その際、平沼が残したひと言は有名です。
「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました」
「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」の文言は、当時の混迷した状況をよく伝えています。
ソ連のスターリンは「条約は破るためにある」との名言を残しています。自国の国益のためであれば平気で他国を裏切るという国際社会の非情なルールは、未だに武士道精神に価値を見出す日本には真似のできないことでした。
wikipedia:ヨシフ・スターリン より引用
【 人物紹介 – ヨシフ・スターリン 】1878年– 1953年
ソ連の政治家・軍人。ソ連第2代最高指導者。チフリス高等神学校に在学中グルジアの愛国的社会主義団体に加入しマルクス主義に接近。神学校から追放された後、職業革命家となり革命まで逮捕・流刑・逃亡を繰り返す。ロシア革命ではレーニンを助けて活躍。レーニンの死後、一国社会主義論を唱えてトロツキーら反対派を次々に追放し、独裁体制を固めた。「スターリン憲法」を定め、膨大な数の党員を投獄・処刑する「大粛清」を実行。
第2次世界大戦では国防会議議長・赤軍最高司令官として戦争を指揮。独ソ戦では緒戦で大敗北を喫したが、米英などと共同戦線を結成し対ドイツ戦を勝利に導く。ヤルタ会談に基づき日ソ中立条約を一方的に破棄して満州侵略、多くの日本人民間人を虐殺した。
終戦の翌日、北海道の北半分(釧路市と留萌市を結ぶ線以北)に対してソ連の占領を認めるよう米大統領トルーマンに要求。樺太・千島列島への侵攻を開始したが、日本軍に阻まれ北海道上陸を断念。戦後は東欧諸国の社会主義化を推進した。
ー 国防方針の大転換 ー
独ソ不可侵条約より引用
独ソ不可侵条約には東方分割の密約も含まれていた
独ソ不可侵条約の締結は、日本の行く末を大きく変えることになりました。日本はドイツと盟約を結ぶことで欧州方面からソ連を牽制し、ソ連の満州侵略がないと判断した時点で満州に張り付いている関東軍の精鋭部隊を日中戦争に投入し、一気に片を付けるつもりでした。
ところが頼みの綱としていたドイツが、こともあろうか逆にソ連の味方になってしまったからには、真逆の事態が起きる可能性が浮上してきました。即ち、欧州から攻められる心配がなくなったソ連が、全軍を満州に向けてくる悪夢です。
現に今、日本軍はノモンハンでソ連軍と戦火を交えていました。局地的な国境紛争から全面戦争へと至った例は、過去に数え切れないほどあります。
陸軍内には「支那(中国)から速やかに撤兵して満州の備えを急ぐべし」との声が、次第にかまびすしく叫ばれるようになってきました。
陸軍から阿部内閣が誕生し、日本の国防方針は180度変わることになります。もはやソ連を牽制することができなくなった以上、以前のようにソ連との対決姿勢を前面に押し出すのはあまりに危険すぎ、得策とは言えません。
日本もドイツにならってソ連との国交調整を図り、敵対関係を解消する方向へ向けて動くことが決せられました。
昨日まで敵対していたソ連と仲直りしようといういきなりの変節は、共産主義の拡大を防ぐという大義に反しますが、当時の日本はドイツの裏切りによって完全に孤立した状態に追い込まれていただけに、やむを得ない処置であったと言えるでしょう。
天津の租界封鎖事件によってイギリスと対立し、日米通商条約を破棄されてアメリカと険悪となり、中国とは交戦中、ノモンハンでソ連と衝突していた日本は、まさに孤立無援でした。
外交的に孤立したままの状態で日中戦争の最中にソ連と全面戦争に至っては、それこそ国が滅んでしまいます。ソ連との融和が急がれるなか、またも衝撃的なニュースが世界を駆け巡りました。
1939(昭和14)年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。第二次世界大戦の始まりでした。
もっとも、このヨーロッパで起きた戦争が第一次世界大戦を越える規模の世界大戦に発展しようなどとは、当時は誰も予想できないことでした。イギリスとフランスは宣戦布告したとはいえドイツに攻め込むわけでもなく、ただ傍観を決め込んだだけです。ドイツがイギリスとフランスに攻め込むのは、まだ数ヶ月待たなければなりません。
このヨーロッパの戦争に1937(昭和12)年に始まった日中戦争や1941(昭和16)年に始まった大東亜戦争が結びつき、第二次世界大戦へと発展することになりますが、それは後から振り返って初めてわかることに過ぎません。1939(昭和14)年9月の時点では、ヨーロッパで局地的な戦争が起きたとしか見られていませんでした。
阿部内閣が欧州大戦不介入の姿勢を打ち出したことは、先に紹介した通りです。
ー 決せられた中国からの撤兵 ー
開かれた戦争の扉(三国同盟)より引用
海軍は三国同盟に反対を唱え続けた、ことに米内光政・井上成美・山本五十六の三人は三国同盟と日米戦争に激しく異を唱え「海軍三羽烏」と呼ばれた
阿部内閣の次に組閣の大命を受けたのは、元連合艦隊司令長官の米内光政でした。
今日では内閣総理大臣は国会議員の選挙によって決まります。そのため議会の多数派である与党の党首が組閣を行うことになります。
しかし、戦前の日本は違います。次の内閣総理大臣を推薦していたのは元老の西園寺公望でした。ですが、西園寺は高齢のため、米内からは重臣会議にて候補者が推薦されるように改まっています。
wikipedia:西園寺公望 より引用
【 人物紹介 – 西園寺公望(さいおんじ きんもち)】1849(嘉永2)年 – 1940(昭和15)年
明治・大正・昭和の政治家。公爵。王政復古に際し参与となり、鳥羽伏見の戦いに参戦。10年間フランスに留学、帰国後明治法律学校(のちの明治大学)を創立。文相・外相・蔵相などを歴任、日露戦争後、桂太郎と交互に政権を担当。
陸軍と対立して総辞職した後は元老として首班推薦の任に当たる。パリ平和会議では首席全権を務める。最後の元老として宮中グループの隠然たる大御所と目され、政界に影響を与え続けた。
そこで、陸軍を抑えるために登用されたのが、海軍出身の米内光政でした。米内は当然、海軍の伝統的な主張を代弁します。太平洋を庭とする日本海軍にとって、強力な海軍を擁するアメリカとイギリスの方がドイツよりもはるかに大切にすべき国でした。米英との協調は、海軍が望んでやまない伝統的な方針です。
wikipedia:米内光政 より引用
【 人物紹介 – 米内光政(よない みつまさ) 】1880(明治13)年 – 1948(昭和23)年
明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。第37代内閣総理大臣。日露戦争にの際は日本海海戦に従軍。佐世保・横須賀等の司令長官を経て、連合艦隊司令長官に就任。林銑十郎・第1次近衛文麿・平沼騏一郎各内閣の海相を務め、日中全面戦争の開始に際しては不拡大論を唱え、陸軍の進める日独伊三国同盟締結に終始反対した。
1940年1月に首相となり組閣するも、三国同盟に反対したため陸軍により半年で辞職に追い込まれる。東条内閣崩壊後、小磯・鈴木・東久邇・幣原の各内閣で海相を歴任、終戦の難局に善処した。穏和な人柄の人物であり、海軍穏健派のエース的存在であった。いわゆる陸軍悪玉論・海軍善玉論が昭和史として定着する上で、大きな役割を果たした。
米内内閣はドイツとは距離を置きつつ、米英との協調を保とうとしました。
独ソ不可侵条約の締結により、陸軍内にもこれ以上日中戦争に深入りすることは危険だとする論が強くなり、日中戦争の早期解決に向けて時計の針が動き出したのです。
やがて1940(昭和15)年3月30日、陸軍は日中戦争について重大な決定を下しました。年内いっぱいは和平を結べるように終戦外交に尽くし、それでも和平工作が成功しない場合には翌年の初頭から自発的に撤兵を始め、1943(昭和18)年までには上海付近、および内モンゴルの一部にあたる蒙疆(もうきょう)にわずかな兵を残すのみで、中国からすべての兵の撤兵を完了させる、との決定です。
この決定は、従来までの陸軍の方針の真逆を行くものでした。これまで陸軍は蒋介石が抗日の姿勢を改め、共産党を容認しないと表明するまでは、日中戦争を継続すると言明してきました。
しかし、今回の決定によって従来の方針が打ち捨てられ、良しにつけ悪しきにつけ今年度中に日中戦争に見切りを付けることになったのです。
このまま泥沼の日中戦争に足を取られていては、いつソ連から満州を突かれるかわからないだけに、苦渋の決断と言えるでしょう。
日中戦争の予算も、撤兵にあわせて減らしていくことが決まりました。1940(昭和15)年が55億円、1941(昭和16)年が45億円、1942(昭和17)年が35億円、1943(昭和18)年が25億円と、次第に減額していくことが決まったのです。
中国からの撤兵が実際に始まれば、米英との対立関係も解消されることが期待されました。日中戦争から手を引くという決断が為された以上は、外交交渉によって満州国の承認を取り付ける道が開きます。
これでようやく日中戦争という長いトンネルから抜け出すための光明が見えたと、政府も陸海軍上層部も一様に胸をなで下ろしました。
ところが……。
ー バスに乗り遅れるな! ー
第二次世界大戦『ドイツ軍の進撃』より引用
ドイツは怒濤(どとう)の勢いで周辺諸国を次々に侵略した
陸軍の方針変更により、これで日中戦争にケリがつくと思われた矢先、世界情勢は激変しました。
5月から始まったドイツの大攻勢が、ヨーロッパの地図を大きく塗り替えてしまったからです。5月10日、ドイツ軍は突如、オランダとベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始しました。戦車と航空機を駆使するドイツ軍の強さは、まさに神がかかっていました。
フランスがドイツに備えて築いた要塞であるマジノ線を突破すると、英仏連合軍をダンケルクの海に追い落とし、6月14日にはパリに無血入城を果たしたのです。6月17日にはフランスが降伏し、ドイツは大勝利を収めました。
夢にも思わなかったドイツの快進撃に日本は湧き返りました。ことに興奮を隠せなかったのは軍人たちです。
その頃、軍人の間で日常の挨拶のようにささやかれ始めたのが「バスに乗り遅れるな」のひと言でした。
ドイツの裏切り行為に腹を立ていったんは盟約の話を白紙に戻したものの、世界が驚くほどの快進撃を見せつけられると、ドイツとよりを戻そうとする声が再び大きくなってきたのです。
改めてドイツと盟約を結び、ドイツがヨーロッパで新秩序を建設する勢いに便乗することで、日本もまた東亜に新秩序を打ち立てるべきだとする強気の論が、陸軍のなかに広がっていきました。
「ドイツの快進撃は天が恵んでくれたチャンスなのだから、この絶好の機会を逃すことなく勝ち馬に乗るべきだ、急げ!」といった思いが、「バスに乗り遅れるな」のスローガンに含まれています。
電光石火のドイツの快進撃は、日本にとってたしかに追い風でした。ドイツによってオランダが滅び、フランスも占領下に入りました。イギリスはまもなく開始されるドイツの侵攻に脅え、もはや風前の灯火です。
東亜を植民地としていた列強がいずれも亡国同然のなか、日本が目指す大東亜協同経済圏を実現する千載一遇(せんざいいちぐう)の機会が訪れていたといえるでしょう。
日本がこの機会を利用して東亜に新秩序を打ち立てるためには、ドイツと盟約することで、その権利を確保しておく必要がありました。何も手出しができないまま、東亜にあるオランダ・フランス・イギリスの植民地にドイツに入られては、元も子もありません。
日本が理想とする東亜新秩序を打ち立てるためには、ドイツとの盟約がどうしても必要だったのです。
やがて「バスに乗り遅れるな」の大合唱は、軍人ばかりでなく市井の国民に至るまで日本中を熱気で包んでいきました。ドイツ軍の電撃的勝利は、日中戦争の行き詰まりに嫌気が差していた日本国民を歓喜させ、ヒトラーを英雄視する世論が創られていったのです。
アメリカから重要物資の輸入が次第に先細りしていくなか、国民とて日々の暮らしに不安を感じていました。しかし、ヒトラーの台頭により英米の時代が終わりを告げ、世界の大転換の時がやって来たという空気が日本中を覆いました。
この好機を逃すことなくドイツと結び、今こそ東亜に覇を唱えるべきだとする声が、日増しに強まっていったのです。
ー 覆された中国からの撤退 ー
東亜新秩序が一気に現実味を帯びてくるとなると、日中戦争からの撤退を決めた先の決定もまた、覆ることになりました。もともと撤兵を決めたのは、欧米列強が蒋介石政権を援助していたため、武力をもって日中戦争を解決する見込みが薄かったためです。
しかし、状況は大きく変わりました。蒋介石政権を支えていたイギリス・フランスが亡国寸前となれば、物資の運搬に使われていた仏印ルートやビルマルートなどの、いわゆる援蒋ルートを遮断(しゃだん)することも簡単です。援蒋ルートが使えなくなれば、重慶への物資の運搬ができなくなるため、蒋介石を降伏に追い込むことができます。
ソ連が動く前に、中国を早期に武力制圧できる見込みが浮上してきたのです。
その結果、「もはや蒋介石に譲歩して和平を結ぶ必要などない」との声が、陸軍内で強まりました。
こうなるともう、中国からの撤兵どころではありません。一度は中国からの撤兵を決めたものの、わずか3ヶ月の後には180度ひっくり返り、武力をもって日中戦争を早期に解決すると方針が改められることになりました。
ー 第二次近衛内閣という悲劇 ー
wikipedia:第2次近衛内閣より引用
総理官邸で記念撮影に臨む第2次近衛内閣の閣僚たち
日中戦争の徹底遂行が決定されるとともに、米内内閣の掲げる英米協調論もまた、陸軍から槍玉に挙げられるようになりました。米英、とくにアメリカとは戦争にならないように最善を尽くす、ドイツ・イタリアとは同盟を組まない程度に国交を緊密にする、との方針を掲げた米内内閣は、ドイツとの同盟に向けて積極的に動こうとする陸軍にとっては邪魔な存在でした。
陸軍の反米内運動により、米内内閣は倒れます。陸軍からの強い要望もあり、次に登場したのは、またしても近衛文麿でした。もっとも近衛の再登板を期待したのは陸軍ばかりではありません。
wikipedia:近衛文麿 より引用
【 人物紹介 – 近衛文麿(このえ ふみまろ) 】1891(明治24)年 – 1945(昭和20)年
大正-昭和時代前期の政治家。第34・38・39代内閣総理大臣。五摂家の筆頭の家柄に生まれる。パリ講和会議には西園寺公望らの全権随員として参加。貴族院議長を経て以後三度組閣。第一次内閣にて日中戦争中に「国民政府を相手にせず」の近衛声明を発表し和平の道を閉ざした。東亜新秩序声明を出す。
第二次内閣では武力南進方針を採用し、日独伊三国同盟の締結、大政翼賛会の創立を行う。第三次内閣で日米交渉に当たるも東条英機と対立して総辞職。敗戦後に国務相として入閣、憲法改正などにあたった。戦犯に指名され、服毒自殺を遂げた。
国民の間でも近衛の人気は依然として高いものがありました。しかし、選択次第で国家の興亡がかかるこの重大な時期に第二次近衛内閣が組閣されたことは、日本を悲劇へと導くことになります。
外相に就任したのは松岡洋右、さらに陸相として迎えられたのは統制派のリーダーと目されていた東条英機です。この二人の人物は、日本の行く末に大きな影響を与えました。
近衛内閣の組閣からわずか4日後、たった3時間の会議によって「情勢の推移に伴う時局処理要綱」と題された陸軍案が、新内閣の方針として決定されました。
この後の日本の行動は、「時局処理要綱」に沿うように進められることになったのです。それはどう考えても、3時間ほどで決められるような軽々しい内容ではありませんでした。
近衛が軽率に定めた新内閣の方針こそは、日米開戦へと至るプロローグとなったのです。
ー 日本が目指す今後の方針とは – 南進への道 ー
正しい歴史認識第九回「侵略戦争」ってあるの?:武田邦彦(中部大学)より引用
これ以後、欧米列強が植民地として支配する南へ向けて、日本は戦いを挑むことになる
日本の今後の指針については、陸軍の武藤章を中心に「綜合国策十年計画」にて示されていました。しかし、フランスがドイツに降伏するなどの激動する世界情勢を反映していなかったために、最新の情勢を踏まえ新たな指針としてまとめられたのが「時局処理要綱」です。
そこには、蒋介石が降伏するまで日中戦争を徹底して遂行することと、チャンスを見計らって列強が東亜にもつ植民地を東亜新秩序に取り込むことが示されていました。そのためには武力行使をいとわないことが、明言されています。
こうした南方への積極政策を「南進」と呼びます。対して北方地域への進出が「北進」です。日本の北方には常にロシアがいました。ですから「北進」の意味するところは、ソ連との決戦を意味します。
ノモンハンで行われていたソ連軍との紛争は、ドイツのポーランド侵攻を境に停戦協定が成立していました。
先にも記した通り、ノモンハン事件でのソ連側の実際の被害が甚大であったことが最近になって判明していますが、当時の陸軍は間違った情報により、ノモンハンで大敗したと認識していました。
そのため「強いソ連軍と戦うことは好ましくない」といった空気が、陸軍を支配しました。そうした時期にドイツの快進撃と欧州列強の没落の情報がもたらされたため、南進論が一気に注目されることになったのです。
もともと南進論を主張していたのは海軍であり、陸軍は消極的でした。ところがドイツの戦勝に乗じて南方攻略の目処が立つや、陸軍もまた南進を支持するべく方向転換を遂げました。
もっとも闇雲に南進へ突っ走ったわけではありません。南方の武力行使については、対象をイギリスのみに限定していました。香港や英領マレー半島などです。
攻撃をイギリスのみに限定することで、アメリカからの軍事介入を避けられると当時の日本陸軍は考えていました。いわゆる英米可分論です。
陸軍内でも「アメリカとの戦争は避けるべき」とする考え方が大半を占めていました。アメリカを刺激しないように、細心の注意を払って南進を行うことが決められたのです。
ただし、アメリカによる日米通商航海条約の破棄が示すように、アメリカがイギリスと連動する可能性も捨てきれないため、場合によってはアメリカとの戦争になるやもしれず、そのための準備は必要とされています。
ー 日本が目指す今後の方針とは – 蘭印の石油確保 ー
オランダ領東インド – Dutch East Indiesより引用
蘭印には油田と精油所が集中していた
日本が南進を行う最大の理由は、蘭印の石油を確保することでした。「蘭印」は「オランダ領東インド」の略称です。その支配領域は、今日のインドネシアとほぼ同じです。
当時の日本はアメリカからいつ石油の輸出を止められるかわからないという不安定な状況におかれていたため、アメリカに頼ることなく石油を確保する必要に迫られていました。蘭印には石油資源があり、石油生産の施設も充実していました。日本からは地理的にも近いため、石油を入手するためにこれ以上好条件が揃った地域はありません。
だからといって、はじめから武力をもって蘭印の石油を奪おうとしたわけではありません。本国のオランダはすでにドイツ軍に占領され、オランダ政府はイギリスに亡命する形でかろうじて存続している状況でした。オランダ政府と交渉して通常の貿易で石油を入手できさえすれば、なんら問題ありません。
しかし、東亜からイギリスを力尽くで排除しようと決めた日本に対して、オランダ政府が友好的に接してくれるかどうかはわかりません。交渉の結果が思わしくなければ、武力行使の可能性も視野に入れていました。
日本が欧米に依存することなく、自給自足でまかなえる東亜新秩序を築くためには、蘭印の石油は欠かすことのできない最重要物資でした。
問題は蘭印からオランダ軍を力尽くで排除する事態となれば、恐らくオランダ軍は日本軍に奪われる前に、石油施設を徹底的に破壊するだろうと予測されることでした。そうなると石油生産の完全な回復には2~3年を要するため、その間は石油を入手できなくなります。
こうした最悪の事態を避けるために、外交交渉で平和的に石油の入手を目指すことが確認されました。
ー 日本が目指す今後の方針とは – 仏印進駐を目指して ー
南進を成功させるために、欠かすことのできない軍事拠点がフランス領インドシナ(略して「仏印」)です。仏印は現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域です。
英領マレーや蘭印を攻略するためには日本軍が仏印を通過できること、仏印の飛行場を利用できることが必須条件でした。
さらに仏印には蒋介石政権への最大の援助物資補給ルートがありました。補給ルートを遮断することは日中戦争を終わらせるために絶対に必要なことでした。
フランスはドイツに降伏しましたがフランス政府の存続は許され、ヴィシー政権が成立しています。日本はヴィシー政権と外交交渉を行うことで、日本側の要求を容認させることを決しました。交渉がこじれた場合は、ここでも武力行使を辞さないとしています。
こうして南方へ進出するための方針が決まり、ドイツ・イタリアとの政治的結束を強化した上で、対ソ国交の飛躍的調整を図るとされました。具体的にはドイツ・イタリアと軍事同盟を結ぶとともに、ソ連と不可侵条約を締結することが、当面の目標です。
陸軍が書き下ろした「時局処理要綱」は海軍の同意を得た上で、大本営連絡会議にて第二次近衛内閣の「基本国策要綱」として正式に採択されました。
その際、仏印に対する武力行使は「支那事変処理を看板にする」ことが定められています。つまり仏印進駐の大義名分は、「日中戦争を解決するために援蒋ルートを封鎖するため」とされたのです。
その意味するところは、援蒋ルートの遮断はあくまで建前に過ぎず、本当の狙いは南進のための拠点作りにある、ということです。
すべては南進に向けて、動き始めていたのです。
(2/5)ユダヤ人を救え!6千人を救った杉原千畝の『命のビザ』
(3/5)驚異的なナチスドイツの快進撃。合言葉は「バスに乗り遅れるな!」
(4/5)欧米に頼らない生存圏をアジアに!大東亜共栄圏が掲げた理想
(5/5)消えたソ連との四国同盟。自ら自滅に導いたヒトラーのその決断