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    レキシジン4章「大戦へのカウントダウン」1941年 独ソ戦勃発!そのとき日本は?#54 ついに独ソ開戦、松岡外相が天皇に上奏したその驚くべき内容

    #54 ついに独ソ開戦、松岡外相が天皇に上奏したその驚くべき内容

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

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    第1部4章 独ソ戦(7/12)アメリカの怒りを買う南部仏印進駐はどう決まっていったのか

    日本はなんのために戦ったのか

    3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

    その6.ついに独ソ開戦、そのとき日本は……

    ー 独ソ開戦後のドイツの快進撃 ー

    独ソ戦
    8 生命とりのロシア侵攻遅延より引用
    バルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻図

    1941年(昭和16年)6月22日3時15分、北部・中央・南部の三方に分かれた機甲師団を中心とするドイツ軍およそ120個師団300万は、一斉にソ連領内へなだれ込みました。ついに独ソ戦の幕が切って落とされたのです。

    不意を突かれたソ連軍はたちまち総崩れとなり、ドイツ軍は疾風の勢いでソ連内陸部への侵攻に成功しました。

    日本では独ソ開戦近しの見通しの上に準備をすすめていたにもかかわらず、当事国であるソ連が不意を突かれたという事実を不思議に思うかもしれません。

    実はソ連に対して、米英からドイツの攻撃が迫っていると知らせる極秘情報が再三寄せられていました。アメリカはドイツがソ連攻撃に出る準備を進めていることを、日本よりも早くつかんでいました。すでに1941(昭和16)年1月にはソ連に対し、ドイツに不穏な動きがあることが伝えられています。

    また東京のドイツ大使館にオット大使の顧問として潜り込んだスパイ・ゾルゲも、ドイツによる対ソ攻撃が近いこと、開戦の確度が95%にも上ることを6月1日にはモスクワに送っています。

    独ソ戦
    wikipedia:リヒャルト・ゾルゲ より引用
    【 人物紹介 – リヒャルト・ゾルゲ 】1895年 ‐ 1944年
    ドイツの新聞記者・共産主義者。父はドイツ人、母はロシア人。第一次世界大戦が勃発するとドイツ陸軍に志願。西部戦線で両足に重傷を負う。ベルリン大学卒業後、ロシア革命に衝撃を受け、ドイツ共産党に入党。モスクワへ派遣され軍事諜報部門に配属される。上海でのスパイ活動を経て、コミンテルンの命をうけて「フランクフルターツァイツング」紙特派員として来日。

    日本の対ソ侵略防止と日ソ平和の維持を目的としてゾルゲ諜報団を組織し、日本の政治・外交・軍事情報をさぐる。ドイツ駐日大使の私的顧問として大使親展の機密情報を盗み、ドイツのソ連侵攻作戦の正確な開始日時を事前にモスクワに報告したが無視される。日本がソ連侵攻をあきらめ南進を決定した重要情報をモスクワに伝え、ソ連の勝利に貢献した。

    1941年尾崎秀実らとともに逮捕され、のち死刑に処される。一連のスパイ活動はゾルゲ事件として日本を震撼させた。1964年「ソ連邦英雄勲章」が授与される。

    独ソ戦
    wikipedia:オイゲン・オット より引用
    【 人物紹介 – オイゲン・オット 】1889年 ‐ 1977年
    ドイツの軍人・外交官。駐日ドイツ大使館付き武官となり、日独防共協定締結に尽力。のち
    日本駐在特別全権大使となり、日独伊三国同盟成立の推進者となる。ゾルゲのスパイ活動発覚により、ゾルゲを顧問とした責任を問われ駐日大使を解任された。戦後は戦犯に問われることもなく、隠棲して長い余生を送る。

    しかし、独裁制を固めるために粛清に次ぐ粛清で部下の多くを処刑してきたスターリンは周囲に対して疑心を募らせ、こうした情報の数々を信じようとしませんでした。そうなるとスターリンの周囲にいた幕僚たちは保身に走り、独ソ開戦の危機を伝える情報を手許で握りつぶすようになっていたのです。

    ゾルゲが命がけで得た情報についても「疑問あり」とされ、スターリンまで届かなかったことが戦後、明らかにされています。

    米英からの情報に耳を貸すことなく、ソ連は油断しきっていました。対英戦に苦しむドイツがまさか対ソ戦に打って出るとは予測していなかったため、ドイツ軍の侵攻に対する十分な備えができていませんでした。

    そのためドイツ軍の侵攻の前にソ連軍は次々と撃破されていきました。ドイツ空軍はソ連空軍を退けて制空権を確保し、陸軍はソ連軍を包囲しては殲滅(せんめつ)を繰り返し、レニングラード・スモレンスク・キエフへとドイツ軍の快進撃は続き、ソ連軍は甚大な被害を受けていました。

    ドイツ軍の快進撃は日本にとって喜ぶべきことでしたが、米英は不安を募らせました。米英は追い詰められたスターリンがヒトラーに降伏し、講和を結ぶのではないかとの危機感に苛まれていたのです。

    ー 日本の反応と松岡外相による意外な上奏 ー

    独ソ戦
    カズオ・イシグロが描いた「シナ事変」とは? 日中戦争80年に読むべき3冊:文春オンラインより引用
    松岡外相による上奏は、常軌を逸したものだった

    独ソ開戦の報が日本にもたらされると、政府や軍部と一般国民とで反応は大きく異なりました。事前になんの情報も持ち得なかった国民からすれば、まさかと叫ばずにはいられない驚天動地の不可解な開戦でした。「世上は青天の霹靂の感あり、啞然たるもののごとし」と当時の空気感を伝える日記が残されています。

    対して政府や軍部は事前情報を得ていたため、「遂に来たか」と冷静に受け止めています。寝耳に水の出来事であったため大騒ぎとなった2年前の独ソ不可侵条約の際と比べると大違いです。

    参謀本部の機密日誌には「歴史ハ変転ス。独ソ不可侵条約ニ驚愕セル日本国民、又独ソ開戦ニ接シ歴史ノ変転感慨無量ナルモノアラン……痛飲シ独ソ開戦ヲ祝シツツ血湧キ肉躍ル。」と綴られています。

    平静を保って独ソ開戦を受け止めた政府首脳と軍部の指導者たちですが、松岡外相の行動だけは際立っていました。

    6月22日の夕刻、松岡は天皇に単独上奏しています。驚くべきは、その内容です。

    独ソ開戦した今日、日本もドイツと協力して、
    ソ連を討うつべきである。
    このためには、南方は一時手控えるがよいが、
    早晩は戦わねばならぬ。
    結局、日本は、
    ソ連・米・英と同時に戦うこととなる

    松岡洋右(外務大臣)

    一気に読める「戦争」の昭和史』小川榮太郎著(扶桑社)より引用

    自ら日ソ中立条約を締結しながらも一方的に破棄し、ドイツと共にソ連に攻め込むべき、米英ソと同時に戦うことになると単独上奏した松岡の言葉に、天皇が驚いたことも当然と言えるでしょう。

    この日の上奏が示すように、独ソ開戦後の松岡は日本の対ソ開戦を強く主張するようになりました。開戦前はシンガポールへの攻撃を煽り、独ソ開戦後は対ソ開戦を主張する松岡の言動は、周囲が首をかしげるほど奇妙なものでした。天皇は『昭和天皇独白録』にて「松岡は買収されたのではないかと感じた」と綴っています。

    開戦前のシンガポール攻撃、開戦後の対ソ戦開始はドイツが日本に対して要請していたことです。周囲からは松岡がいかにもドイツ政府の代弁者のように見えたことは、致し方のない面があったと言えるでしょう。

    独ソ開戦前後における松岡の理解不能な言動は、松岡批判が多いひとつの原因になっています。

    ー 独ソ開戦後に陸海軍で合意された国策とは ー

    独ソ戦
    http://nozawa22.cocolog-nifty.com/nozawa22/2011/04/post-a581.html
    より引用
    北進論と南進論の両論併記が日本の国策として決定された

    独ソ開戦を受け、軍部が最も関心を払ったのは戦況がどのように推移するかでした。戦況次第で日本も対ソ戦に踏み切ることが事前に合意されていたため、情勢分析が急がれたことは当然と言えるでしょう。

    参謀本部では早くも23日午前には独ソ開戦後の情勢について次のような判断を示しています。

     ドイツの侵攻によってソ連は虚を突かれ、開戦数ヵ月でドイツが勝利し、スターリン政権は崩壊する可能性が高い。ソ連が撤退戦略をとり、独ソ戦が長期持久となることもありうる。だが、その場合でも、レニングラード(現サンクトペテルブルク)、モスクワ、ウクライナ、バクー油田などを失い、ソ連は大幅な国力低下となる。作戦的には短期終結の公算大だが、戦争全体としては将来を予測しがたい(田中「大東亜戦争への道程」)。

    昭和陸軍全史 3 太平洋戦争』川田稔著(講談社)より引用

    ソ連領内に深く侵入し、なおも快調に進撃を続けるドイツ軍の強さを目の当たりにしては、ドイツ首脳が戦前から豪語しているように2~3ヶ月のうちにはソ連を打倒できるとの目算が真実味を帯びるのも無理はありません。

    独ソ戦がドイツ優勢なまま推移していることは間違いなく、それは戦前に陸軍の大半が下したドイツ勝利の予測と一致するものでした。

    独ソ開戦となった今、日本がどのような方針で臨むべきかを再検討した結果、陸軍では6月14日に合意された「情勢の推移に伴う国防国策の大綱」を今後の方針とすることが決定されました。

    さらに海軍とも協議がもたれ、6月24日には「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」陸海軍案が作成されました。

    そこには今後の方針として3項目、要領として7項目が記されています。方針は以下の通りです。

    1.帝国は世界の情勢変転の如何に拘らす大東亜共栄圏を建設し以て世界平和の確立に寄与せんとする方針を堅持す
    2.帝国は依然支那事変処理に邁進し且自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す
    3.帝国は右目的達成の為如何なる障害をも之を排除す

    情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱:Wikipediaより引用

    最優先すべき国策として大東亜共栄圏の建設があげられ、そのために日中戦争を処理すると共に自存自衛のための南方進出と北方問題の解決を図ること、それが陸海軍で合意された日本の方針でした。

    具体的なことは要領に記されています。南方進出については蒋政権を屈服させるために南方から圧力をかけること、「自存自衛上南方要域に対する必要なる外交交渉を続行し」、「南方施策促進に関する件」で合意されたことに基づいて仏印とタイに向けた諸方策を成し遂げること、なお「目的達成の為対英米戦を辞せす」とされました。

    「対英米戦を辞せず」と記された背景については、すでに既述の通りです。

    独ソ戦については三国同盟を堅持しながらも当分は介入せず、「密かに対『ソ』武力的準備を整え」ること、独ソ戦が日本にとって有利に展開した場合は「武力を行使して北方問題を解決し北辺の安定を確保す」とされました。「北方問題の解決」とは、もちろん対ソ開戦を意味します。

    ここまでは陸軍内で合意された「情勢の推移に伴う国防国策大綱」とほぼ同じ内容です。さらに海軍からの要請として、北方への武力行使に際しては「対英米戦争の基本態勢の保持に大なる支障」がないように行うことと記されました。

    海軍が北進について消極的なことは、この時点でも変わりありません。しかし表だって反対することで陸軍がへそを曲げて南方から手を引く事態を恐れ、あくまで南方にて対英米戦争に備える基本態勢を保持することを条件に、北進を容認したのです。

    この国策は後に「非決定」あるいは「両論併記」の国策として批判を浴びることになります。大東亜共栄圏の建設という大義は掲げられているものの、北進と南進のどちらを優先するのかについては実際には決定されていません。

    国策のなかには日中戦争解決のための南部仏印進駐と自存自衛の基礎を固めるための南方進出、情勢に応じての北進と、3つの方向性が併存しています。しかし、南部仏印進駐はともかく、北進と南進では矛盾を来す可能性が高いだけに、単に併記されているだけでは何も決定されていないも同然でした。

    独ソ開戦前から北進か南進かを巡って対立した問題については、ついに結論が出されることなく決定が先送りされ、北進派も南進派も必要とした仏印とタイとの連携強化のみが実行されることになったのです。

    仏印とタイを勢力圏に取り組むことは、独ソ開戦とは関係のない従来からの国策です。つまるところ、独ソ開戦を受けたあとの日本の方針については北進と南進の両論を記すことで、どちらの準備も進めるとの曖昧(あいまい)な決着でお茶を濁したということです。

    北進論が主流になりつつあったため、慎重な姿勢を堅持したい陸軍軍務局と海軍は北進論を抑え込むために積極的な南進策を打ち出すよりなく、さらには松岡外相を説得するために示された「対英米戦も辞せず」とする文言は、そのまま国策に盛り込まれたのです。

    ー 再び繰り返された松岡外相と軍部の対立 ー

    独ソ戦
    米軍から見た帝国陸軍末期の姿 〜本当に天皇や靖国のために戦っていたのか?より引用
    日本軍の行進。松岡外相は南部仏印進駐の延期を求めたが、進駐は予定通り黙々と実行に移された

    今後の国策について陸海軍の合意が為されたため、あとは政府の同意を待つだけとなりました。ここで軍部の前に立ちはだかったのは、またも松岡外相でした。

    独ソ開戦の日に単独上奏を行って以来、松岡は即時対ソ開戦を強硬に主張したのです。軍部が南部仏印進駐のための外交交渉を要請した際、松岡はシンガポール攻撃と対米戦の決意を軍に迫ることで仏印進駐を思いとどまらせようと画策したと推測されていますが、今回も同じ構図でした。

    軍に即時対ソ開戦を行う気がないと見た松岡は、ただ一人、対ソ開戦にすぐに踏み切ることを主張し、その場の議論をリードしようとしました。

    ドイツとの信義を振りかざしては対ソ開戦を声高に主張する松岡を前に、軍部は当惑するよりありません。軍部は松岡の主張を否定するために、即時対ソ開戦がどれだけ無謀なことであるのかを説かなければなりませんでした。

    日本が対ソ開戦に踏み込めば日独伊枢軸国と英米ソの対立が鮮明となるため、日本はソ連ばかりでなく英米とも同時に戦うことになると予測されました。海軍は対英米戦には自信はあるが、英米ソを相手に同時に戦う自信はないと述べています。

    杉山参謀総長も海軍に同調し、今ソ連と戦えばアメリカの介入を招くと即時対ソ開戦を退けました。

    しかし、松岡はひるむことなく26日の大本営政府連絡懇談会においてもソ連への攻撃を優先することを提議しています。

    そんな松岡の真意は28日になってようやくわかってきました。松岡は相変わらず即時対ソ開戦を求め、陸海軍に共に準備が整っていないと否定されると、今度は一転して南部仏印進駐に話を戻し、進駐を強行すれば米英ソと戦うことになると主張したのです。

    成り行き上、やむなく南部仏印進駐に一度は同意した松岡ですが、国策を決める瀬戸際になって再び反旗を翻したことになります。南部仏印進駐の中止を松岡は求めました。

    独ソ開戦後、松岡がすぐに撃ソ論を主張したのは、南部仏印進駐の中止を求めるためのレトリックであったとする説を多くの書が指摘しています。

    30日の懇談会では松岡から「対ソ戦を行うために南部仏印への進駐を6ヶ月延期してはどうか」との提案が為され、議論に多くの時間が割かれました。

    このときに松岡が吐いた言葉は有名です。

    「我輩は数年先の予言をして的中せぬことはない。南に手をつければ大事になると我輩は予言する。それを統帥部長はないと保証できるか、南部仏印に進駐すれば石油、ゴム、錫、米等皆入手困難となる。英雄は頭を転向する。我輩は先般南進論を述べたるも、今度は北方に転向する次第なり」

    大東亜戦争の実相』瀬島龍三著(PHP研究所)より引用

    松岡のこの英雄発言は、南部仏印進駐後に日本に課された米英を中心とする経済制裁を正確に見通すものでした。当時は南部仏印進駐を強行してもアメリカが制裁に動くことはないと信じられていたため、松岡の発言は異彩を放っています。

    この発言を受け海軍が延期に同意しましたが、陸軍は進駐実施を主張して譲らず、結局松岡が折れ、懇談会としては進駐実施の結論を得ました。

    松岡が果たして南部仏印進駐の危険性を本当に認識していたかどうかについては、多くの書が疑問を掲げています。強硬に反対を主張できる場面にて、松岡が軟化しているからです。松岡の言動については多くの謎が残されています。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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