第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部4章 北部仏印進駐(1/7)蒋政権を支える米英仏ソの経済援助。元凶を断つための戦い
日本はなんのために戦ったのか
2.北部仏印進駐の余波
その3.仏印ルート遮断を巡るフランスとの交渉
ー 決裂した交渉 ー
仏印(ベトナム)の援蒋ルートより引用
仏印ルートを経由して大量の軍需物資が蒋政権のもとに運ばれていた、泥沼の日中戦争を終わらせるためには仏印ルートの閉鎖がどうしても必要だった
日本は仏印ルートによる援蒋行為を中止するように何度もフランス政府に申し入れました。しかし、フランス政府は様々な口実を設けては援蒋行為を止めようとしません。度重なる警告にも耳を貸さないため、日本は1939(昭和14)年末から翌年の初めにかけて、雲南鉄道の鉄橋を爆破する強行手段に出ました。
この爆撃に対してフランス政府は日本政府に抗議し、損害賠償の請求を起こしています。しかし、日本政府は援蒋行為に雲南鉄道が使われている以上、鉄道への爆撃は国際法上正当であるとして、これをはねつけました。
やむなく爆撃はしたものの、日本はあくまで説得による問題解決を目指しました。1940(昭和15)年2月、パリで日仏交渉がもたれます。日本は蒋政権の抗戦力を強める一切の物資輸送の停止などを要求し、その対価として中国にあるフランスの権益の尊重、雲南鉄道空爆の中止を掲げましたが、フランス側は応じようとしませんでした。
そこで条件を緩和し、少なくともフランスでも戦時禁制品とされている武器弾薬・飛行機・トラック・ガソリン・金属類と機械など数品目のみの輸送停止を求めましたが、フランス側はそれでも拒否しました。
交渉は決裂し、フランスは鉄道爆破個所を修理すると再び援蒋輸送を開始しました。そのため日本は4月下旬より、再び雲南鉄道の爆撃をせざるを得なかったのです。
仏印ルートの遮断が思うように進まないなか、1940(昭和15)年5月から始まるドイツの快進撃はフランス側の態度を一変させました。
ー フランス降伏後の交渉 ー
upload.wikimedia.orgより引用
パリ無血開城を受けて凱旋門を背に行進するナチス・ドイツ軍
6月中旬、フランスがドイツに早々に降伏するという思わぬニュースがもたらされました。パリ陥落後のフランスは、イギリスに亡命したド・ゴールがロンドンにて亡命政府「自由フランス」を結成しましたが、本国ではドイツの支配下に入ったヴィシー政権が6月22日に成立しています。
wikipedia:シャルル・ド・ゴール より引用
【 人物紹介 – シャルル・ド・ゴール 】1890年 – 1970年
フランスの軍人・政治家。第2次世界大戦勃発時は陸軍次官。フランスの降伏が迫るも抗戦継続を主張して孤立。逮捕される直前にロンドンに亡命。BBC放送からフランスに向けて歴史的な対独レジスタンスの呼びかけを行い、ロンドンに自由フランス委員会を設立した。
本土のペタン政権からは反逆罪のかどで死刑を宣告されるも、レジスタンス結集に尽力。パリ解放後に帰国を果たし、フランス共和国臨時政府の首班となった後に下野。のちアルジェリア問題でフランスが危機に陥った際、挙国一致内閣で首相となる。第五共和制を発足させ、初代大統領に選出された。右翼の抵抗を抑えてアルジェリア独立承認をはじめとする非植民地化を推進。
ヤルタ体制すなわち米ソ両国による世界の共同支配体制を拒否し、核兵器の開発・共産圏への接近・中国承認・アメリカのベトナム介入反対・NATO軍事機構からの仏軍の引き揚げなど、独自の外交路線を突き進めた。そのしわ寄せにより国民生活には重圧が強いられ、五月革命勃発。国民投票により敗北し、1969年に引退。翌年死去。
フランス降伏を受け 6月18日、参謀本部の部課長会議が仏印ルートの遮断交渉について議定するために開かれました。席上で大多数を占めたのは「外交交渉はすでに一ヵ年にわたって行なわれたが実効にとぼしい。すなわちこの好機に乗じ、武力を行使してルートの断絶を強行すべし」とする強行論でした。
強行論が採択される勢いでしたが、それを制したのは参謀次長の沢田茂でした。
「いまフランスがドイツ軍に征圧されている最中に、日本が兵力を以て介入することは武士の情けが許さぬ」と沢田は言い切り、一同を抑えてすべてを外交交渉に委ねることに決したのです。
しかし、このときの対立軸は後々まで禍根を残しました。これより仏印ルートの遮断を巡っては、武力をもって強行を主張する派と外交のみで平和的に解決を図る派の2つに分かれて相争うことになります。
Shigeru Sawada / 沢田茂 より引用
【 人物紹介 – 沢田茂(さわだ しげる) 】1887(明治20)年 – 1980(昭和55)年
大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。シベリア出兵時に特殊工作にあたる。ハルピン特務機関長・第4師団長などを経て、参謀次長となる。参謀本部の実質的な統轄者として、ノモンハン事件および仏印進駐の後始末と責任処置に尽力。南方進出による日中戦争の処理を構想した。戦後はBC級戦犯となり重労働5年の刑を受ける。
参謀本部の部課長会議の翌日、日本政府は仏印に対して援蒋行為の中止を求め、24時間以内に回答するように要求しました。タイムリミットに追われた仏印総督カトルーはアンリー駐日フランス大使の助言を受け、本国へ相談することなく独断で日本側の要求を受け入れました。
仏印ルートを使った援蒋物資のすべての輸送を停止し、それを確認するための日本監視団の派遣についてもカトルーは承諾しています。
6月末に西原一策少将を団長とする監視団がハノイに入ると、カトルー総督は中国に対して共同防衛する目的で日本と仏印が防守同盟を結ぶことを提議し、さらに支那事変を解決するために昆明攻略作戦を日本側に進言してくるほどでした。
西原一策 より引用
【 人物紹介 – 西原一策(にしはら いっさく) 】 1893(明治26)年 – 1945(昭和20)年
昭和時代前期の軍人。最終階級は陸軍中将。ジュネーブ軍縮会議全権随員・上海派遣軍参謀などを経て仏印監視団長に就任。北部仏印進駐時の「西原・マルタン協定」の当事者として知られる。北部仏印進駐に際し、平和進駐を指示していた中央の意向に反して陸軍が強行進駐を実施したのを嘆き、陸海軍次官宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発した。のち 陸軍騎兵学校校長・戦車第3師団長・陸軍機甲本部長などを歴任。
昆明を軍事的に攻略する策は、陸軍にもありました。仏印ルートもビルマ・ルートも、ともに昆明を中継地として重慶に渡っていたからです。昆明周辺は兵器工場などを抱え、重慶政府にとっての後方基地となっていました。
それゆえに、実現しそうにない仏印の貿易制限や国境の封鎖に無駄な時間を費やすよりも、一気に昆明を占領してしまえば援蒋ルートを力尽くで遮断することができます。さらに昆明を抑えてしまえば、重慶の占領も十分に可能になります。
しかし広大な中国での占領地が増えるごとに守備のための兵を割かなければならなかった日本軍には、昆明を叩くだけの兵力を差し向ける余裕がありませんでした。ソ連の侵攻に備えて配備していた満州の関東軍を動員すれば可能ですが、万が一にもソ連が手薄になった満州に攻め込んでくれば満州を失いかねません。
参謀本部は一か八かの冒険を嫌ったため昆明攻略作戦には同意せず、あくまで外交交渉に委ねて援蒋ルートを遮断する方針を固めたのです。
それなのに、まさか仏印側から日仏両軍による昆明攻略作戦を提案されるとは、日本としても驚くほかありません。フランス側の好意的な態度に乗じて、日本は監視団を通じて日本軍の仏印通過と航空基地の利用を要求しましたが、その承諾の権限はないとカトルーは拒否しています。
ー 松岡・アンリ協定の妥結 ー
ところが順調に推移していた仏印との交渉は、カトルーの更迭(こうてつ)によって一気に滞る事態となります。カトルーは本国に無断で日本に大幅に譲歩したことを咎(とが)められて更迭され、ヴィシー政権から新総督ドクーが送られてきました。
カトルーは引き継ぎに際してドクーに次のように述べています。
「日本の要求以上のものを日本に許可した、これは日本への協力のようにみえるが、それと引換えにインドシナにおけるフランスの利権を確保しようとした。しかし、日本使節団は得たばかりの権利を乱用しているから使節団の活動は制限せねばならぬ。これが貴下がいま直ぐ行なわねばならぬことだ」
『太平洋戦争への道 6 開戦外交史 南方進出』日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)より引用
日本に対し譲歩したカトルーですが、日本軍に攻めかかられてはひとたまりもないだけに、フランスの植民地である仏印を守るための苦渋の決断であったことがわかります。
本国政府がドイツに降伏したのだから、仏印は要求を簡単に受け入れるだろうと日本側は安易に考えていました。しかし、総督がドクーに替わってからは、日本に対して譲歩しない姿勢へと明らかに態度が改められました。そのため、仏印国境監視団と仏印当局との交渉は暗礁(あんしょう)に乗り上げることになります。
ちっとも埒(らち)があかない状況に、陸軍内部は絶対平和交渉派と武力進駐派とが再び対立しました。
すでに援蒋ルート遮断の監視を約束させたのだから「このまま交渉を続けることで外交によって援蒋ルートを閉じれば足りる」と主張するのが絶対平和交渉派です。
一方、この上は武力をもって進駐を強行し、仏印ルートを遮断しながら昆明攻略戦を行うべきと主張するのが武力進駐派です。
ここでも参謀本部は絶対平和交渉派に軍配を上げました。武力進駐を強行するとなると、一歩間違えればそこから別の新たな戦争が発生するかもしれないことを恐れたためです。
現地での交渉が滞ったため、松岡外相とアンリ駐日フランス大使との間で東京で交渉が行われ、8月30日、両者間に協定が成立しました(松岡・アンリ協定)。
この協定で日本はフランスの主権も仏印の領土保全も尊重すること、日本軍が使う飛行場はトンキン州の4ヵ所のみに限定すること、日本軍の兵力は六千人以下に抑えることを約しました。さらに、これらは支那事変解決のための臨時的な措置に過ぎず、事変終結とともに消滅すること、これらはフランス軍の監理のもとに行われること、日本軍の存在や行為で仏印が敵軍から損害を受けた場合は日本政府が賠償をすることも約しています。
こうして2ヶ月に及んだ日仏交渉がまとまりました。あとは松岡・アンリ協定に基づいて現地でさらに細かな協定が交わされ、日本軍の進駐が開始される運びとなったのです。
ー 進駐日時の決定 ー
現地での交渉は相変わらず滞りました。ドクー総督が本国からの訓令未着を理由に、なかなか交渉のテーブルに着かなかったためです。そのため、国境近くで待機させられている日本軍のなかには不満が高じていました。
それでも9月4日の夜に西原団長から連絡が入り、6日に細目協定の調印が為されるとの報告が入ったことで、首脳部には安堵感が広がりました。
ところが、ここから事態がこじれ始めます。調印が為されるはずだったその日の朝、7月下旬から不測の事態に備えて仏印国境付近に駐屯していた軍の一部が勝手に仏印領内に進軍し、仏印軍守備隊と小競り合いが生じてしまったのです。
炎熱下の国境にてフランス兵と対峙していたため、精神がいちじるしく昂奮していた大隊長の誤断により越境したものとされましたが、なにやら腑(ふ)に落ちないものがあります。満州事変以来、指揮系統を無視した陸軍の暴走は、今回も起きていたと言えるでしょう。
師団長の至急退却命令により大事に至ることなく事件はすぐに収まりましたが、面目を潰された仏印当局者の怒りは収まるはずもありません。まとまるはずだった交渉は、再び白紙に戻されることになりました。
現地での解決が絶望的となったため再び中央に話が戻されると 9月13日に四相会議が開かれ、仏印進駐についての議論が為されました。武力進駐を唱え血気にはやる現地軍をこれ以上抑えておくことも適わず、仏印に対して最後通牒(つうちょう)を発し、速やかに平和進駐を行うことが決せられました。進駐日時を9月23日零時以降と定め、もし仏印側に抵抗があれば武力を行使することが確認されました。
日本政府はアンリ大使に次の申し入れを行っています。
「我が軍は8月30日の東京取極め及び同25日アンリ大使の次官に与えたる約言に基づき、9月23日零時(東京時間)以降細目協定の成否または交渉継続中と否とに拘らず、随時仏印東京(トンキン)州ヘの進駐を実施することに決せり、但し右進駐は日仏間に成立せる前記話合いに基づくものにして友好的精神を以て行なわんとするものなり、右の次第に鑑み仏国政府は仏印当局に対し速力に細目協定を妥結するよう厳重訓令せられたし」
進駐のタイムリミットを日本側が一方的に設定した誹(そし)りは免れませんが、すでに政府間レベルでは進駐が承諾されており、あとは現地での調整を待つだけであったことから、故意に時間伸ばしを計る仏印に対して最後通牒を発したことをもって「進駐」ではなく「侵攻」だと見なすことには、無理があると言えるでしょう。
ー ギリギリで成立した平和協定 ー
進駐日時が決まったことで、仏印は緊迫した空気に包まれました。9月23日零時までに現地での細目協定が成立すれば平和進駐が実現しますが、成立しない場合は武力進駐となります。
日本軍の仏印進駐を目前に控え、アメリカとイギリスの動きも慌ただしくなってきました。16日にはクレーギー英大使が松岡外相を訪ね、日本の行動を非難しましたが、松岡はこれは日仏の協定に基づき友好的了解のもとに進められているのだから、第三国がとやかく言う筋合でないと反論しています。
駐日米大使グルーは20日の午後に松岡外相を訪れ、「仏印における日本の行動は、日本が極東における現状維持を約したその約束を破棄するものである」と警告を発しました。
病気で静養中の国務長官ハルに代わって日本大使と会見した国務次官サムナー・ウェルズは次のように苦言を呈しています。
「仏印の完全占領にも等しい要求を、最後通牒を以て強い、これを容れなければただちに軍隊の侵入を行なうというのは、支那の侵略とともに、フランスの植民地を侵略するものであって、かかる行為がアメリカ政府当局の深刻なる不安と、アメリカ国民の激烈なる反感とを誘発することは避け得ないであろう」
『軍閥興亡史〈3〉日本開戦に至るまで』伊藤正徳著(潮書房光人社)より引用
wikipedia:サムナー・ウェルズ より引用
【 人物紹介 – サムナー・ウェルズ 】1892年 – 1961年
アメリカの外交官・政治家。ハーバード大学においてフランクリン・ルーズベルトと知り合い、親しい関係を築く。ハーバード大学を首席で卒業後、ルーズベルトの助言により国務省外交部に入省。東京での職務を経てラテンアメリカの専門家として活躍。ルーズベルト政権下の1937年から1943年までアメリカ合衆国国務次官を務めた。
進駐が間近に迫った日本軍の動きにも不穏なものがありました。血気にはやる現地軍に対して沢田参謀次長は「いかなる場合にも23日以前の進駐を厳禁する」と打電し、軍中央はあくまで平和的な進駐を成し遂げる方針であることを知らしめました。平和的進駐にこだわったのは、参謀本部ばかりではなく東条陸相も同じです。
23日零時という期限は設けても、進駐が数日遅れようと構わないとする意向を軍中央は共有していました。ところが現地軍に漂う空気は別物でした。期限を区切った以上はそれを厳守しなければ面子が立たない、と考える軍人が多数を占めていました。
一触即発の張り詰めた空気のなか、9月22日の午後2時半に平和進駐のための細目協定が成立しました。決裂の場合に予定されていた武力進駐が取りやめとなったことで、政府と軍中央は胸をなで下ろしました。
しかし、事務的な未決定部分が残されていたため、監視団の団長を務める西原少将は23日零時に予定されていた進駐を中止するように現地軍に命令を下しました。