第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢
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→第1部 3章 泥沼の日中戦争(3/10)日中全面戦争と南京事件の真実
目次
5.泥沼の日中戦争へ
5-7.参謀本部は和平を望み、政府は戦争継続を望んだ
その1.トラウトマン和平工作
日本軍が南京を占領する前から、日本政府と軍部の首脳は早急に戦争を終えるための和平工作に着手していました。外務・陸軍・海軍の三省の首脳は、第三国の公正な斡旋(あっせん)の申出があれば、先に立ち消えとなった船津工作案の範囲内で和平を受け入れる方針を決定し、10月27日には英米仏独伊に対して、その旨を伝えました。
それに対して手を挙げたのが、ドイツでした。日本は1936(昭和11)年11月に、ドイツとの間に防共協定を結んでいました。防共協定とは、共産主義に対抗するために日本とドイツが結んだ協定です。
ドイツは日本が中国との戦争で戦力を消耗してしまうと共産主義国であるソ連との戦いに支障を来すため、ドイツの国防上不利になると考えたのです。
また、戦争が長引くことで対中貿易に悪影響を及ぼすことも、ドイツにとっては好ましくありませんでした。中国はドイツの貿易にとって大切なお客様でした。
10月下旬にドイツのヒトラー総統は、日中の仲裁に入ることを表明しました。11月初旬、日本は和平条件7項目をディルクセン駐日ドイツ大使に伝えています。
wikipedia:アドルフ・ヒトラー より引用
アドルフ・ヒトラー 1889年 – 1945年
ドイツの政治家。オーストリア生まれ。第1次世界大戦に志願して出征した後、ドイツ労働者党に入党、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称して党首となった。
ミュンヘン一揆に失敗して入獄。出獄後は合法活動によって党勢を拡大し、1933年に首相、翌年大統領を兼ねて総統となり全体主義的独裁体制を確立。いわゆる第三帝国を建設した。反ユダヤ主義とゲルマン民族の優越性を主張、ユダヤ民族撲滅を目指してホロコーストを実行した。強硬外交と軍備拡張により近隣諸国を次々に侵略し、第2次大戦を引き起こした。ベルリン陥落直前、官邸にて自殺を遂げた。
その内容は船津工作案を引き継ぐものであり、華北については南京政権に任すなど日本側が大幅に譲歩した内容でした。ディルクセンは「極めて穏健なもので、南京は面子を失うことなく受諾できるのだから、この条件を受諾するやう南京政府に圧力を行使することが賢明」と、本国に報告しています。
ドイツ政府も日本側の和平条件を妥当なものと判断し、トラウトマン駐華大使を通じて蒋介石に日本側の和平条件を伝えました。
しかし、蒋介石はいったんはこれを拒否しました。ちょうどベルギー・ブリュッセルにて九ヵ国条約会議が開催されていたため、蔣介石はそこで参加各国が対日制裁を科すことに期待を寄せていたためです。ところが会議では日本に対する非難決議は採択されたものの、対日制裁は見送られる結果となりました。
日本軍は南京に迫っていました。もはや一刻の猶予もままならない状況に追い込まれてから、蒋介石は12月初旬にトラウトマンと会談しました。
側近の将軍たちは「もしも日本の条件がそれだけであるならば、われらは一体何のために戦っているのか判らぬではないか」「それだけの条件ならばすみやかに応ずるが可なり」と答えたと伝えられています。
蒋介石もついに折れ、領土・主権の保全を前提に、日本側の和平条件を話し合いの基礎として受け入れることに同意しました。
トラウトマンは帰途の船上において、「会談結果すこぶる有望なり」とベルリンと東京に至急電を打っています。
ここまで来たら、あとは細かい条件を確認し合い、日中が同意したところでヒトラー総統の名において正式に調停が交わされるのを待つだけです。
広田外相は念のために陸海軍と改めて協議したところ、「八月初めの案(船津工作案)にて差し支えなし」との回答を得たことにより、日支事変は12月をもって和平へと至る見通しとなりました。
戦況が日本にとって圧倒的に有利であったにもかかわらず、陸軍が華北の権益を手放す譲歩案に同意したことは勇断でした。参謀本部には石原の残した「事変不拡大」の意思がまだ息づいていました。多少不利な和平案であっても、1日も早く日中戦争を終わらせることが日本を救うことになると固く信じていたのです。
近衛首相と広田外相は、これで和平が成立すると喜び、前祝いの盃を交わしたと伝えられています。
ところが、ここから事態は思わぬ展開を見せます。結果的にトラウトマン和平工作は失敗に終わり、日中戦争は以後も継続されたのです。
いったい何があったのでしょうか?
その2.すり替えられた和平条件
ー 世論に支持された強硬論 ー
和平工作は三省の首脳によるトップ・シークレットとして進められたものでした。参謀本部は和平に同意していたものの、陸軍は破竹の勢いで戦勝を重ねていただけに、軍上層部の大半が和平案に反対することは明らかでした。
和平が成るまでは秘密に事を運び、和平が成った後に軍部からの猛烈な批判を受ける覚悟が参謀本部首脳にはできていました。
ところが、傍受電報の解読やドイツ大使館からの情報によって、和平案の内容は軍部の知るところとなりました。徹底的に武力制圧を主張する強硬派は気色ばみ、「広田斬るべし」と暴言を吐く軍人もいました。「省部ノ下僚色メク」と参謀本部内の日誌にも綴られています。
情報はマスコミにも流れ、和平工作を鋭く批判しました。「支那内外よりする調停説の俄(にわ)かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」と、南京陥落が近いにもかかわらず調停に流れる愚を説きました。
政府内にも和平交渉の中止を求める声が上がりました。ことに海軍大将として予備役に回っていた末次信正内相は海軍内の強硬派を代表する論者として「徹底的に叩いて懲らしめない限り中国人は日本に協力する民族ではない」と、戦争の継続を要請しました。
wikipedia:末次信正 より引用
末次信正(すえつぐ のぶまさ) 1880(明治13)年 – 1944(昭和19)年
明治-昭和時代前期の軍人・政治家。最終階級は海軍大将。潜水艦戦術で頭角を現し、『筑摩』艦長・第1潜水戦隊司令官・海軍大学教官・教育局長を歴任ののち、軍令部次長。加藤寛治軍令部長とともにロンドン海軍軍縮条約に強硬に反対した。
その後第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官を経て、横須賀鎮守府司令長官・軍事参議官を歴任して退役。第一次近衛文麿内閣の内相となり、日中和平を目指したトラウトマン工作を拒絶、蒋介石を対手とせずとの声明を出すよう主張した。潜水艦戦術の権威として知られる。
やがて12月13日に日本軍が南京を占領すると、国内は早くも戦勝気分に包まれ「対等条件での和平案など愚劣にも程がある」との論調で埋め尽くされました。強硬論に染まる世論の高まりは、近衛首相と広田外相にも大きな影響を与えたようです。
末次内相はますます強弁となり「勝者が一銭の賠償も取らずに和平を申し出るなぞは、国民が承知せぬ」と、日本が譲歩した和平案に強く反対しました。
14日に大本営政府連絡会議が開かれると、末次内相は会議への出席を要求しました。ちなみに戦時・事変の統帥機関である大本営は、杭州湾上陸後の11月下旬に設置されました。大本営と内閣による大本営政府連絡会議は、国家レベルでの事実上の最高指導機関です。
連絡会議にて末次内相は「支那軍に徹底的大打撃をあたえることは、九月五日に近衛首相が天下に声明したところである。しかるに今その途中において妥協を企てることは不信であるのみならず、膺懲(ようちょう=征伐してこらしめること)を経ない解決はかならず事変を再発するに決まっている。ゆえに今日停戦するとすれば、彼が膺懲されて屈服した実態においてのみ認め得る」と主張し、会議をリードしました。
つまり、停戦するのであれば、日本が戦勝国としての待遇を得られる条件を付けるべきだと要求したことになります。
末次内相の剣幕に、平等条件での和平を進めていたはずの近衛首相も広田外相も沈黙を続けました。
ー 参謀本部は声涙とともに和平を説いた ー
弱腰の政府首脳に代わり、あくまでも妥協案での和平交渉を進めるべしと抗ったのが、参謀本部の代表者として送られた多田駿参謀次長でした。
wikipedia:多田駿 より引用
多田駿(ただ はやお) 1882(明治15)年 – 1948(昭和23)年
大正-昭和時代の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。支那駐屯軍司令官・第十一師団長を経て参謀次長となる。日中戦争に際しては石原の意志を継ぎ不拡大方針を最後まで主張し、日中和平の実現に尽くした。
ことに「トラウトマン工作打ち切り」を唱える政府側(近衛首相・広田外相・杉山元陸相・米内海相)に対し、日中戦争がいかに日中両国民にとって不幸かを涙ながらに説いたことは有名。その後、参謀本部を追われ、第三軍司令官・北支那方面軍司令官を歴任。一時は陸相就任も有力視されたが、東条英機を推す派閥に阻まれ、実現しなかった。
戦後、A級戦犯容疑者に指定されたが巣鴨プリズンに収容されることがないまま病没。死の一週間後に戦犯指定が解除された。
多田は繰り返し粘り強く、今こそ和平を結ぶ必要があることを説きました。ところが多田の意に反して杉山陸相はおろか、近衛首相・広田外相さえも次第に強硬論になびいていったのです。
wikipedia:杉山元 より引用
杉山元(すぎやま げん/はじめ)
明治-昭和時代の軍人。最終階級は元帥陸軍大将。満州事変勃発の際は陸軍次官、のち参謀次長・教育総監を歴任。日中戦争では陸軍大臣として短期終結の見通しから拡大論を唱え、日中全面戦争化を推し進めた。その後、参謀総長に就任、大東亜戦争の開戦から44年まで陸軍全般の作戦指導にあたった。本土決戦に備え第一総軍司令官となるが終戦を迎え、昭和20年9月12日に自決した。
孤立するなか、多田は涙を流してまで切々と和平を説きました。そのときのことを近衛内閣の書記官長として、大本営政府連絡会議に出席していた風見章が手記に残しています。
[一二月]一四日、重ねて[大本営政府]連絡会議を首相官邸に開く。……開会の後、多田中将発言す。日支戦争の無用と、その如何に日支両国民に取りて不幸なるかを説きて声涙ともに下る。」
(風見章著『手記・第一次近衛内閣時代』『風見章日記・関係資料』より引用)
wikipedia:風見章 より引用
風見章(かざみ あきら) 1886(明治19年)年 – 1961(昭和36年)年
昭和時代の政治家。「信濃毎日新聞」主筆を経て民政党から衆議院議員(当選9回)となる。第1次近衛文麿内閣では書記官長、第2次近衛内閣では法相となり、近衛文麿のブレーンの一人として新体制運動を推進する。大戦後は日本社会党左派に属し日中国交回復や平和運動に尽力。
多田一人が現状のままの和平案を進めるべきと訴えても、他の参加者が全員強硬論を良しとするなか、連絡会議は末次内相の弁に沿うように、これまでの日本が譲歩した和平案を捨て去り、新たに4条件を掲げて交渉にあたることに決しました。
これにより従来の和平条件からは華北を南京政府に任すという項目が削られ、中国が日本に対して賠償を支払うなど、戦勝国が敗戦国に対して求めるかのような厳しい条件にすり替わったのです。
この決定にもっとも驚いたのは参謀本部です。参謀本部はかねてより、南京が陥落しても蒋介石政権が崩壊することはないと判断していました。だからこそ日中戦争が長期化することでソ連が参戦することを恐れ、譲歩してでも講和を実現すべきと訴えてきました。
政府にしても早期講和を望んでいただけに、参謀本部は政府と手を携えて講和に向けて努めてきました。ところが南京陥落を受けて近衛首相と広田外相が180度考えを変えてしまうとは、まったく予期していないことでした。「まさか政府が……」と参謀本部はあ然としました。
一般的には、統帥権の独立を盾に参謀本部(軍人)が戦争にはやり、対して内閣(政治家)は和平を求めるといったイメージが強いかもしれません。しかし、この時期は間違いなく逆でした。
戦争にかけてはプロフェッショナルの軍人が集う参謀本部がひたすら和平を求めたことに対し、政治家から成る内閣はそれを弱腰だと批判し、強硬論を主張して止まなかったのです。
多田参謀次長は手記を残しています。
「普通は強硬なるべき統帥府がかえって弱気にて、弱気なるべき政府が強硬なりしは奇怪に感ぜらるるも、真実なり。」
これ以降も、早期講和を求める参謀本部と、それを良しとしない内閣との争いが続けられることになります。
12月21日に最終案が閣議決定され、翌22日、新たな4条件がディルクセン大使に提示されました。
さらに具体的な条件も閣議で決まっており、ディルクセンの質問に応じて開示されました。そこには、中国による満州国の正式承認や、華北を事実上日本が支配すること、さらに内蒙に防共自治政府を設立する条項などが盛り込まれていました。
それはどう見ても、中国側が受け入れるとは思えない条項のオンパレードでした。
12月26日にトラウトマンから新たな条件を聞いた行政院副院長孔祥熙(こう・しょうき)は「日本が提出した条件には思いつくかぎりのすべてのことが含まれている。日本は十個の特殊政権と十個の非軍事区が欲しいとでもいうのだろうか。こんな条件を受け入れられるものはいない。日本は将来に思いを致さなければ自ら滅亡するだろう」と語っています。
wikipedia:孔祥熙 より引用
孔祥熙(こう しょうき) 1880年 – 1967年
中国の政治家・実業家。蒋介石と並ぶ、中国-民国時代の四大家族財閥の一人。辛亥革命後、南京国民政府工商部長・財政部長・中央銀行総裁を歴任、行政院院長となる。南京国民政府時代に国民党および国民政府の要職に就くことで財産蓄積の基礎をつくり、日中戦争時期の統制経済の中で大財閥に発展した。孔家の腐敗体質については何かと問題となった。
蒋介石も日記(『蒋介石秘録―日中関係八十年の証言』)に次のように記しています。
「倭寇(日本)が持ち出した(細目)条件は、わが国を征服し滅亡させるものに等しい。日本に屈服して亡びるよりは、戦いに敗れて亡びる方を選ぼう。厳しい拒絶をもって回答としなくてはならない」
日本の新たな条件を南京政府が容認できないのは当然といえるでしょう。日本側にしても誰一人として中国が条件を呑むとは本気で思ってなどいませんでした。
その3.御前会議の行方
ー 御前会議の争点とは ー
ウィキペディア より引用
1938年1月の御前会議
12月24日の閣議では「事変対処要綱」が決定されましたが、強硬論に染まったその内容は驚くべきものでした。近衛首相と広田外相の変節ぶりは明らかでした。
それは華北を第二の満州にするも同然の内容でした。華北を南京政府に任すとした先の和平案とは真逆です。さらに上海を日本の領有にするかのような記述もあり、欧米諸国への配慮もまったくありません。
こんなことをすれば欧米が日本を侵略者とみなし、対日制裁に踏み切ることは火を見るより明らかです。政治に関しては素人にすぎない、近衛首相の馬脚を表したともいえる無茶苦茶な内容でした。
参謀本部の中堅将校たちは陸海軍および外務の事務当局のもとを何度も訪れ、「事変対処要綱」のごときは日中国交の大局を誤るものと主張し、早急に御前会議を開いて日中外交の基本方針を確認し、侵略を否認することを内外に向けて知らしめる必要があると説きました。
その結果、1938(昭和13)年1月11日、日支事変対策のための最初の御前会議が開かれました。それは日露戦争以来はじめて開かれる御前会議でした。
ここで再度整理しておくと、参謀本部は日本が譲歩した条件での即時講和を主張し、陸軍省は徹底的に中国を叩きのめすために戦争継続か、あるいは日本を戦勝国とする条件での和平交渉をすべきと主張しました。
中国側が新たな条件を受け入れるとは考えにくいため、陸軍省は戦争継続を望んでいるも同然です。和平か戦争継続かの対立と言ってよいでしょう。
参謀本部とは天皇に直属した機関であり、戦時における指揮命令を司りました。参謀本部の統帥権は独立しています。一方、陸軍省は陸軍の編成に関する予算措置と運用を行うための機関です。陸軍省は内閣に属します。
参謀本部と陸軍省の力関係は、ほぼ五分五分です。ということはキャスティングボートを握るのは近衛首相と広田外相です。
二人が参謀本部に同調するならば、先の和平案での講和が進められ、陸軍省の強硬論に同調するのであれば中国が容認できそうにない厳しい条件での和平交渉を進めることが決します。
ですが、すでに近衛首相と広田外相が強硬論に染まっていることは、12月14日の連絡会議の動向を見ても明らかでした。さらに1月9日の連絡会議と閣議にて、中国に対して降伏条件を突きつけるに等しい和平条件が議決されたことは、さらなるだめ押しでした。
となると、御前会議の争点はただ一つです。参謀本部が天皇の御前にて9日の議決をひっくり返せるかどうかに、すべてがかかっていました。
ー 封じられた天皇の御質問 ー
かくして運命の御前会議が始まりました。御前会議とは、文字通り天皇を前にして行われる会議のことです。御前会議ともなると天皇の意見が大勢を左右するように思われがちですが、まったく違います。
実は昭和に入ってからの御前会議には、暗黙のルールがありました。それは、天皇はひと言も言葉を発してはいけないという定めです。天皇は意見を述べることも、質問をすることさえ事実上、禁止されていたのです。もちろん議決に参加することもできません。
それは元老の西園寺公望により、皇室が政治責任を負うことがないように配慮して定められた決まりでした。憲法の趣旨に従い「君臨すれども統治せず」を目指したのです。
wikipedia:西園寺公望 より引用
西園寺公望(さいおんじ きんもち) 1849(嘉永2)年 – 1940(昭和15)年
明治・大正・昭和の政治家。公爵。王政復古に際し参与となり、鳥羽伏見の戦いに参戦。10年間フランスに留学、帰国後明治法律学校(のちの明治大学)を創立。文相・外相・蔵相などを歴任、日露戦争後、桂太郎と交互に政権を担当。陸軍と対立して総辞職した後は元老として首班推薦の任に当たる。パリ平和会議では首席全権を務める。最後の元老として宮中グループの隠然たる大御所と目され、政界に影響を与え続けた。
御前会議においては、天皇はただの聴衆者に過ぎません。陛下の御前において決せられることで議決の重さが増すことのみに、御前会議の価値がありました。
しかし、今回の御前会議に先立っては異例のことが起きています。軍令部総長であった伏見宮から内大臣に対して、陛下の御発言を必要とする旨が提言されたのです。恐らくは天皇自らが日本の行く末を決める重大な御前会議に臨み、今回ばかりは意見を述べることを希望されたのかもしれません。
wikipedia:伏見宮博恭王 より引用
伏見宮博恭王(ふしみのみや ひろやすおう) 1875(明治8)年 – 1946(昭和21)年
明治時代-昭和時代の皇族・元帥。明治維新前に創立された宮家中で最も古い伏見宮家の23代。日露戦争では連合艦隊旗艦「三笠」分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。横須賀鎮守府司令長官・海大校長・第2艦隊司令長官・軍事参事官を経て、海軍軍令部総長となり海軍統帥の最高責任者として昭和天皇を補佐した。皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富だった。戦後、皇籍を離脱。
内大臣は会議の前日に人を送って、唯一の元老西園寺にお伺いを立てました。西園寺の返事は「陛下は単なる御質問の程度ならば御発言差し支えなかろう。ただし、会議を左右するような御言葉は不可」というものでした。
質問のみとはいえ、これまでひと言も口にできなかったことに比べれば、大きな進歩です。天皇が強硬論に対して質問を投げかければ、それだけで強硬論をけん制する効果が生じます。
ところが、これに近衛首相が反対します。内大臣から御前会議にて天皇からの質問が認められたことを聞いた近衛首相は、「本案は総理大臣の全責任においてすでに決定し、単に御前で本格的に決めるだけだから、従来どおり御発言なきことを望む」と言い放ちました。
そのため内大臣はその夜、天皇に拝謁(はいえつ)すると従来通り無発言を言上しました。今回も天皇は会議の行方をただ黙って見守るよりありませんでした。
wikipedia:昭和天皇 より引用
昭和天皇(しょうわてんのう) 1901〈明治34〉年 – 1989〈昭和64〉年
第124代天皇(在位: 1926〈昭和元〉年12月25日 – 1989〈昭和64〉年1月7日)。名は裕仁(ひろひと)。日本の皇太子として初めての外遊でヨーロッパを訪問。帰国後、大正天皇重病のため摂政宮に就任し、代わって公務につく。大正天皇崩御により践祚(せんそ)、「昭和」と改元。
大東亜戦争の開戦に際し「宣戦の詔書」を発する。多くの歴史学者が「当時の憲法で天皇は最高決定権をもっていたが、実際には政府や軍が決定した方針を承認するにすぎなかった」と指摘している。日中戦争についても日米開戦についても、強く躊躇(ちゅうちょ)の態度を表明するも、正規の手続きによって裁可を求められたものについては、最終的に裁可を与えるよりなかった。
しかし、ポツダム宣言受諾か本土決戦かをめぐり内閣と統帥部が分裂し、態度決定ができなかった際は、はっきり受諾の意思を表明し、最終決定に決定的な役割を果たし、日本を終戦に導いた。
8月15日の玉音放送は国民一般が天皇の生の声を聞いた最初であり、これによって円滑な降伏が実現した。戦後は「人間宣言」を発することで天皇の神格を否定し、全国各地を巡幸して再建に働く国民を激励。日本中で熱烈な歓迎を受けた。日本国憲法にて「国民統合の象徴」と位置づけられ、以後その役割を忠実に果たした。生物学者としても知られる。87歳で逝去。在位期間は62年で歴代最長。天皇として最も長命だった。
これ以降、西園寺の死去に伴い、天皇が御前会議でご発言されることもまれにはありました。しかし、天皇が最終的な決断を下すことは、ずっと避けられてきました。
唯一の例外となったのは終戦時、本土決戦計画を否定して国民を救われた「御聖断」です。それは昭和天皇が生涯で下した、ただ一度の御裁可でした。
ー 御前会議で決せられたこと ー
御前会議に参謀本部の代表として出席したのは、参謀総長閑院宮殿下でした。即時和平を悲願とする参謀本部の期待を一身に背負って会議に臨んだ殿下でしたが、「戦勝国が敗戦国にのぞむような態度や観念を去り、東洋永遠の平和という大乗的立場から条件を決めるべきだ」と原則論を掲げたのみで、「それを含んで原案に同意する」とさっさと9日に決まった条件に賛成してしまいました。
wikipedia:閑院宮載仁親王 より引用
閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう) 1865年(慶応元)年 – 1945(昭和20)年
伏見宮邦家親王第16王子。後継のいなくなった閑院宮を継ぎ第6代当主となる。終戦直前まで皇族軍人として活躍。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。参謀総長に就任後、皇道派の真崎甚三郎と対立し、統制派に近い立場をとった。
ただし、皇族として実務にはあまり関与せず参謀次長が総長の業務も行っていた。貴族院創設と同時に皇族議員となり薨去(こうきょ)まで54年6ヶ月間務めたが、これは貴族院のみならず参議院まで含めても最長在任記録(議員としての活動実態は皆無)。大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物としても知られる。
御前会議にて逆転を狙おうとした参謀本部の目論見は、あっさりと崩れ去ったのです。殿下の人柄からして、孤軍奮闘して議決をひっくり返すような大胆な行動を期待すること自体に無理があったといえるでしょう。
かくして御前会議にて停戦条件九ヵ条が決定されました。前文には日本の高圧的な姿勢がはっきりと示されています。
すなわち、南京政府が和議に応じない場合には、その後は南京政府を相手とする事変解決には期待をかけることなく、中国に新たな政権が樹立されるように助け、この新たな政権とともに新中国の建設に協力する、との趣旨です。
中国の広大な領土と4億の民の存在を無視したあまりにも浅はかな基本方針が決せられたのです。
その4.早期講和か戦争継続か、日本の運命を変えた 1・15
ー 政府の強硬論 ー
年末に提示された新たな4条件に対する中国からの回答が寄せられたのは、1月14日のことでした。中国側はあらためて要求細目の確認を日本政府に求めてきました。
日本の改変案は従来のものよりも範囲が広いため、中国政府としては十分に検討して確たる返答をなすため、新条件の性質と内容とを詳しく伝えてほしいとの返事でした。
その返答に広田外相は憤りました。広田外相は日本の掲げた条件を中国が受諾(じゅだく)するのか否かのどちらかの回答が来るものと期待していました。そのため、中国の返答はただの時間稼ぎとしか見えなかったのです。
交渉の打ち切りを恐れたディルクゼン大使は、日本側の詳細条件を書面で伝えたわけではないのだから、日本側から書面で中国側に具体的条件を伝えた上で21日か22日まで回答を待つことを提案しました。
しかし、広田外相の怒りは収まらず、ディルクゼン大使はベルリンに「敗北して和を乞わざるを得ないのは支那自身ではないか、生意気を言うナ、と言わんばかりの剣幕であった」と電信しています。
中国側の返答に対してどう答えるべきかを決めるための連絡会議が1月15日に開かれました。
ここでも政府はかたくなに強硬論を主張しました。南京政府が日本の提示した停戦条件に対して無条件に応じるのでなければ交渉を打ち切り、徹底的に打撃を与えるまで戦い続けるべきだと言い張りました。
対して参謀本部は、現在の交渉を継続することで終戦に導くように一段と努力を払うべきだと主張しました。
激論は4時間に及びました。実は1月初旬に「講和問題に関する所信」と題された筆者不明の近衛文書が見つかっています。そこには、政府の定めた方針が赤裸々に語られています。
「政府としては今次事変を契機として禍乱の根源を将来に残さざるよう徹底的なる解決を期し、そのためには相当長期にわたる対戦もあえて辞せざる覚悟と用意とをなし、……姑息(こそく)なる妥協は極力排すべきものとす」
「独逸(ドイツ)大使を通じての今回の交渉にたいしても必ずしも衷心(ちゅうしん)より賛成せるにあらず、ただ軍部側の切なる希望もあり、かつ今回提示せる要求はわが最小限度の要求なりとの了解のもとに賛成したものなり」
「政府側としては軍部がかくのごとき拙策(せっさく)を採りてまで講和を急がるる真意を了解するに苦しむ」
『あの戦争と日本人』半藤一利著(文藝春秋)より引用
ことに参謀本部が推し進めようとしている早期講和を「軍部がかくのごとき拙策」と批判していることは驚くべきことです。はじめは政府とて、その方針で動いていたはずです。
連絡会議に参加していた面々が、この近衛文書の内容を知るよしもないものの、すでに政府として強硬な姿勢を示すことが決せられていただけに、それを覆すことは至難の業であったといえるでしょう。
ー 激論! 連絡会議 ー
今回の連絡会議は日本の行く末を決める重要な会議であったため、皇族の参加は見送られました。参謀本部からは閑院宮参謀総長に代わって多田参謀次長が出席しています。連絡会議は次のような経過をたどりました。
広田外相が中国側は日本の提示した条件を拒否する姿勢であること、交渉の見込みがないことを告げると、多田参謀次長は政府がまだ中国に対して詳しい条件を通告していないことを指摘し、日本国の興廃に関するほどの戦略的重要性を有するのだから、書面にして中国に伝えるべきだと主張しました。
この機会を逸すれば長期戦争に発展する危険があるだけに、外交によって事変の解決を期すべきであると、多田は何度も何度も力説しています。
それでも広田は譲らず、中国側が詳細を知りたいと申し出るのは単なる時間稼ぎのためであり、誠意が認められないと突っぱねます。
海軍の参謀本部にあたる軍令部の次長古賀峯一は多田に同調しました。中国が詳しい条件を知りたいと希望するのであれば、それを示せば良いではないか、交渉を打ち切るのは早計であると述べています。
wikipedia:古賀峯一 より引用
古賀峯一(こが みねいち) 1885(明治18)年 – 1944(昭和19)年
大正-昭和時代の軍人。最終階級は元帥海軍大将。ロンドン海軍軍縮会議の際は海軍省首席副官を務め、暗殺される覚悟で条約締結に尽力。軍令部次長・第2艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官を歴任。山本五十六戦死後の連合艦隊司令長官となる。
パラオ大空襲に際し、パラオからダバオへ飛行艇で移動中に行方不明となり殉職した(海軍乙事件)。戦死ではなく殉職とされた事が原因で靖国神社には合祀されていない。死後元帥に昇進。
ここで杉山陸相と米内海相は、交渉を続けて見込みがあるかないかの判断は外相に一任すべきであると説きました。杉山と多田は激しく激論を交わしました。
その際、米内海相は「参謀本部は政府を信用しないというのか。統帥部がそのように反対するならば、政府はもう総辞職するしかない」と、内閣総辞職まで匂わせて多田に圧力をかけています。
今、こんな大変なときに総辞職に至るようでは国益を大きく損なうことが見えているだけに、多田としても立場がありません。
それでも多田は「明治天皇は、かつて朕に辞職なし、と仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなどいったい何事でありますか」と、あきらめることなく食い下がっています。
平行線をたどるなか、やむなく近衛は明朝改めて再議することを述べ、熱い大討論に幕が下ろされました。
ー 近衛首相はなぜ変節したのか? ー
政府としては参謀本部と軍令部が反対することはわかっていたものの、結局は折れるだろうと予測していただけに、ここまでかたくなに反対するとは計算外でした。
その日の夜、政府は緊急閣議を開きます。その結果、政府は中国との交渉打ち切りを再確認し、政府でまとめた「声明書」を用意しました。翌日の連絡会議において、その承認を押しつけることを決めたのです。参謀本部の反対を無視しての強行です。
それにしても不思議なのは、戦争のプロであるはずの参謀本部がこれ以上の長期戦は戦えない、早急に講和すべきだと主張しているにもかかわらず、軍事に関しては素人に過ぎない政府首脳が戦争継続にしつこくこだわったことです。その真意については、現在に至るも謎とされています。
ただし、一つの説として軍需産業に携わる企業家が早期講和に反対したとの論があります。
参謀本部の堀場少佐は次のように述べています。
「軍需生産に当たる企業家も、支那事変が短期に終息するのでは、拡張施設に投資するのに躊躇せざるを得ないので、心ひそかに拡大長期化するのを念願していた者もないとは保証し得ないのであった。
これらが世論を作り出し、対支膺懲の国論を盛り上げ、政府も、国論や政党の動向に迎合し、勢い強い声明を発し、和平条件にも過酷の要求を中国側に強いるという結果になる傾向もないではなかった。」
wikipedia:堀場一雄 より引用
堀場一雄(ほりば かずお) 1901(明治34)年 – 1953(昭和28)年
昭和時代の軍人。最終階級は陸軍大佐。参謀本部員をへて中国・ソ連などに駐在。帰国後、参謀本部戦争指導班に属し、日中戦争の不拡大に努めた。支那派遣軍参謀の後、大東亜戦争では南方軍参謀などをつとめた。
堀場の弁は、日本にも軍需産業で儲ける「死の商人」がいたことを示唆(しさ)しています。
また巷には、日中戦争処理に関し強硬策を採るように、右翼の壮士から近衛首相が脅迫されていたとの噂も飛び交いましたが、真相はわかっていません。
近衛やその他の要人の手記からは誰かに強迫されていたと言うよりは、「中国を武力で屈服させることは容易である」と近藤自身が楽観していた姿が浮かび上がってきます。結局は近衛の見識の低さと大局を見通す予見力のなかったことが、最大の原因といえるでしょう。
ー 四面楚歌 ー
その頃、参謀本部のもとには多田の陸軍士官学校時代の同期生や陸軍省の要職に就いている人々が、入れ替わり立ち替わり説得に訪れました。彼らは口々に、これ以上の反対をすべきではないと多田をいさめました。
これ以上反対を続ければ内閣は総辞職する、そうなれば参謀本部が内閣を倒したことになり、世論を敵に回すことになるとの論です。たしかに庶民はすでに早くも日の丸の旗行列や提灯行列に興じ、「勝った、勝った」と騒いでいました。南京政府の首都である南京を陥落させたのだから、日本の勝利で戦争が終わると信じていたためです。
http://www.asagaya.or.jp/archives/archives.html より引用
南京陥落を祝う提灯行列
新聞もそうした論調で埋まっていました。今こそ中国をこらしめるときだと、世論を煽りにあおっていたのです。
四面楚歌のなか、多田はついに「国民政府を相手にせずという方式には不同意なれども、今回の政府の決定には反対を差しひかうることとする」と、翌日の連絡会議を待たずに、政府に一任することに同意せざるを得ませんでした。
ー 間に合わなかった「帷幄上奏権」ー
それでもまだ、参謀本部はあきらめていませんでした。その夜、なんとしても戦争継続を訴える政府の声明文の発表を止めようと、参謀たちが集まり知恵を出し合いました。
そうして浮かび上がったのが、参謀本部の伝家の宝刀である「帷幄(いあく)上奏権」です。
「帷幄」とは、参謀本部のことです。参謀本部は天皇が直接率いる組織とされました。その一環で参謀本部長には上奏権が認められていました。「上奏権」とは、閣議を通すことなく、天皇に直に意見や事情などを申し上げることのできる権利です。つまり陸軍の参謀本部長と海軍の軍令部長は、直接天皇に意見具申して承認を仰ぐことができたのです。
閣議の決定は、近衛首相が天皇に報告に行き、認可を受けた時点で効力を発揮します。そこで参謀本部は、意見を文書にまとめた上で帷幄上奏権を用いて、近衛首相より先に天皇に渡そうとしたのです。
参謀本部は急いで上奏文を書く間に、閑院宮参謀総長を呼びに人を送りました。閑院宮は何も知らずにすっかり寛いでいます。そこへ上奏の話が舞い込んできたため、大あわてで軍服に着替えることになりました。
その頃はまだ閣議が終わっていません。参謀本部では閣議がいつ終わるかと気を揉むばかりです。午後8時、首相官邸での閣議が終了しました。近衛首相は車に乗って宮城に向かいます。
なんとしても近衛首相に先じようと参謀本部は閑院宮参謀総長を急かしますが、宮様だけに支度に時間がかかり、上奏文を持って出発したのが午後9時5分でした。
やがて閑院宮参謀総長が宮城に到着したときには、時すでに遅く、近衛首相の上奏が終わり、天皇の認可が下りた後でした。まさに万事休すです。
それでも閑院宮参謀総長は帷幄上奏を行い、本日の連絡会議決定に関して参謀本部は不同意であること、政府崩壊の内外に及ぼす影響を慮り、政府一任としたことを上奏しました。
しかし、すでに下りた認可を取り消すことはできません。こうして、参謀本部が政府に抗った長い1日は終わりました。
早期講和を求めた参謀本部の声はかき消され、政府主導により中国との和平交渉の打ち切りと戦争の継続が決定されたのです。
高嶋辰彦戦争指導班長は「陛下の熱烈なる和平のご念願も空しく、我ら半年の努力も実を結ばずして、事ここに至りたるを知る。実に千秋の恨事なり…翌日更に事実を確かめ、同室の秩父宮殿下を始め、一室満座悲憤の涙にむせぶ」と日記に無念さを綴っています。
高嶋辰彦─皇道の理想を追い求めた孤高のエリート軍人 より引用
高嶋辰彦(たかしま たつひこ) 1897(明治30)年 – 1978(昭和53)年
ドイツ留学後、参謀本部作戦課に所属。参謀第1部戦争指導班班長となり、日中戦争の不拡大に努める。後に西欧的侵略からの解放を目指し、東亜の再建とアジアの復興を期す『日本百年戦争宣言』を著す。
「昭和の天才」と呼ばれた仲小路彰らとともに、独自の「日本世界主義」思想を展開した。日中戦争不拡大の主張が東条ら軍上層部の不興を買い、参謀本部を追われ、台湾歩兵第一連隊長(台湾軍第四十八師団)として海南島に赴任。軍人ながら無駄な殺生を嫌い、一部射撃を受けてもこれに対して狙いを外して発射し、敵の人命をも尊び、時期を待って遂に降伏させ、1名も血塗らさなかったと伝えられる。
現地住民の保護にも貢献した。終戦に際し宮城事件(一部の軍によるクーデター未遂事件)の鎮圧に尽力。晩年は陸上自衛隊幹部学校の部外講師を務めた。
こうして翌日、日支事変中の最大の失敗と言われる 1・16 声明が、近衛首相によって発表されました。
その5.国民政府を相手とせず
https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201609/article_17.html より引用
声明を読み上げる近衛首相
歴史に大きな汚点を残すことになった声明は次のごとくです。
帝国政府声明(一月十六日)
帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与うるため今日におよべり。
しかるに国民政府は帝国の真意を解せず、みだりに抗戦を策し、内人民塗炭の苦を察せず、
外東亜全局の和平を顧みるところなし。よって帝国政府は、爾後(じご)国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期し、これと国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。(以下略)
『軍閥興亡史〈3〉日本開戦に至るまで』伊藤正徳著(潮書房光人社) より引用
ことに有名なのは「その後、国民政府を相手にせず」と強く断言している箇所です。国民政府を公式に否認し、それとは異なる親日政権樹立の意志を示したものです。つまり、言わば中国全土を満州化しようとするかのような声明でした。
『図説 日中戦争』森山康平著(河出書房新社) より引用
1938(昭和13年)年1月17日付け東京朝日新聞
交渉の窓口をすべて閉ざさなければならない理由など何ひとつなかったにもかかわらず、強硬な態度により今後の交渉の余地を一切なくしたことは、日本の国益を大きく損なうことになりました。外交上、これほど大失敗した声明も珍しいといえるでしょう。
後年、このときの声明を批判された近衛は「後から直せばいいと思ってた」とこぼしたと伝えられています。有能な政治家に恵まれていなかったことは、この時代の日本にとっての悲劇です。
しかし、近衛の声明は国民から大喝采を浴び、近衛の人気はさらに高まりました。南京が陥落した今、国民政府が音を上げるのは時間の問題だと国民の大半が信じ切っていました。近衛の英断によって日本の国力はますます増すことになると、日本中が浮かれていたようです。
今、早期講和に踏み切らなければ戦争は拡大し長期化する、そうなれば幾万の兵をいたずらに泥沼の戦場に送り死なせることになると叫んだ参謀本部の声は、国民には届きませんでした。
一方、中国は近衛の声明を聞くことで、国家の存亡をかけて日本に対して徹底抗戦を誓い合い、国民党と共産党の結束はさらに強まりました。和平派はことごとく弾圧され、中国の総力をあげて抗日へと向かっていったのです。
日本政府による断絶宣言を受け、トラウトマン工作は打ち切られました。日中両国はそれぞれ駐在大使を引き揚げ、これより日本は出口のない長期戦の泥沼に入っていくことになります。参謀本部が何度も警告した通りに、事態は悪化の一途をたどったのです。
なお日本側との和平交渉に当たっていた高宗武は後に「日本側がもう少しねばってくれたら、トラウトマン交渉は成立したと思われる。近衛内閣の性急な一月十六日声明は返す返すも遺憾であった。……」と語っています。
wikipedia:高宗武 より引用
高宗武(こう そうぶ) 1905年 – 1994年
中国の政治家。日本に留学後、汪兆銘のもとでアジア局長を務める。日中戦争の和平派であり、のち重慶からハノイに脱出した汪兆銘と行動を共にした。日中戦争で武漢が陥落すると、極秘来日して対日交渉にあたる。日本の要求の厳しさに反発。汪に背いて香港に去った。その後アメリカに渡り、株式投資で財を築く。
早急に交渉を打ち切るのではなく、参謀本部が主張したようにもう少し粘り強く交渉を続けていたならば、講和へと至った可能性は残されていたようです。
もし、このときの首相が近衛でなかったならば、日本の運命は大きく変わっていたかもしれません。
政府の方針に抗い、最後まで和平を求めて戦った参謀本部の面々は、この後、そのことごとくが参謀本部を追われました。同年12月に多田は第三軍司令官として転出し、以後の参謀本部は拡大派を主導した武藤章たちによって仕切られることになりました。
参謀本部は和平を求め政府は戦争継続を望んだという歴史的な事実は、戦後になるとなぜか忘れ去られ、軍部の暴走ばかりが指弾されるようになります。
しかし、日中戦争が長期化し、泥沼化したことの責任は、政府の稚拙な外交にこそ求められるといえるでしょう。