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    レキシジン3章「人種差別と世界大戦」1937年 日中戦争を操った国々#31 アジアから突きつけた初めての挑戦状「東亜新秩序」とは

    #31 アジアから突きつけた初めての挑戦状「東亜新秩序」とは

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 3章 泥沼の日中戦争(6/10)日本は世界を征服しようとしたのか?

    5.泥沼の日中戦争へ

    5-10.東亜新秩序が変えた世界

    その1.東亜新秩序の建設

    日中戦争
    日華満(日本・中国・満州)協助天下太平のポスター

    国家総動員法によって国民の日々の暮らしは大きな制約を受けるなか、軍事的にも政治的にも手詰まりに陥ったまま、出口がまったく見えてこない日中戦争に対する苛立ちは日本中を覆っていました。

    日中戦争の長期化を避けられない以上は、日本はなんのために戦っているのかという大義名分を国民、及び諸外国に向けて示す必要に、政府は迫られていました。

    そこで、1938(昭和13)年11月3日、近衛内閣によって発表されたのが「東亜新秩序」の声明です。この声明にて近衛首相は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序」の建設を日本の基本国策として定めることを、内外に向けて宣言しました。

    ここでいう「東亜」とは日本・中国・満州の三国です。その内容は「東亜における国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現」のために、三国は政治・経済・文化での提携を深め、新秩序を建設するとの声明でした。

    のちに大東亜戦争の目的として掲げられる「東亜新秩序」という言葉が、初めて使われたのがこの第二次近衛声明でした。この声明こそが、大東亜共栄圏構想の出発点といえます。

    「東亜新秩序」の声明は画期的でした。

    開国以来の日本の歩みのなかで、主軸として貫かれてきたのが「アジアのためのアジア」を掲げた汎(はん)アジア主義です。汎アジア主義(大アジア主義)とは、欧米列強のアジア侵略に対してアジアの一体性や解放を説く主張・理念のことです。

    欧米列強によって植民地化されたアジアから支配者である白人を追い出し、アジアをアジア人自身の手に取り戻すことは、同じアジアの一カ国である日本にとっての悲願でした。

    日本から発信された汎アジア主義は、日露戦争に勝利することでアジア全域の民族主義者を目覚めさせました。しかし、汎アジア主義の機運はあくまで民間レベルで高まっていたに過ぎません。
    ▶ 関連リンク:2.日露戦争がもたらしたもの-その1.アジア主義の始まり

    ところが「東亜新秩序」の声明により、初めて日本政府が汎アジア主義を国家の政策として採用すると宣言したことになります。このことは日本にとって、そして世界にとっても、歴史的な転換点と言えます。

    「東亜新秩序」は、長らく世界を支配していた欧米列強に対して、アジアから突きつけた初めての挑戦状です。

    なぜなら「東亜新秩序建設」の声明は、ワシントン体制から日本が抜け出すことを意味しているからです。

    第一次大戦後のアジアの秩序は、1921(大正10)年のワシントン会議にて定められた体制によって保たれてきました。現状維持を基本とする九カ国条約によって、アジアの秩序は守られてきたのです。
    ▶ 参照リンク ワシントン会議に見る幻想としての平和-日本の手足を縛った九ヵ国条約

    しかし、日本は今後はアジアに関しては、日本が主導的な役割を果たしながら新秩序を建設すると主張したわけです。それは、ワシントン体制を守ることによってもたらされる現状維持に真っ向から反逆するものでした。ワシントン体制に対するあからさま挑戦です。

    日本は明治以来、米英との協調を外交の基本方針に据えてきました。それは軍事的にも経済的にも弱小国に過ぎなかった日本が生き残るために、やむを得ない選択でした。

    その基本方針を日本は、近衛の「東亜新秩序の建設」声明によってかなぐり捨てたのです。今後は米英との協調よりも、自主外交に軸足を移すとはっきり宣言したことになります。

    こうしてアジアに関しては自主外交を推し進めようとする日本の姿勢は、アジア版のモンロー主義とも呼ばれ、世界に波紋を広げることになりました。

    その2.アジア・モンロー主義とは

    明治から昭和にかけての思想家として名を馳せた徳富蘇峰は、第一次大戦中にアジア・モンロー主義を次のように説きました。

    亜細亜モンロー主義とは、亜細亜の事は、亜細亜人によりて、之を処理するの主義也。亜細亜人と云うも、日本国民以外には、差寄り此の任務に膺るへき資格なしとせは、亜細亜モンロー主義は即ち日本人によりて、亜細亜を処理するの主義也。

    「亜細亜モンロー主義を以て、我が帝国の使命と為す」と徳富蘇峰は、その決意を表明しています。

    「アジアのことをアジア人で処理できるように」するために、日本人がその使命を担うという表現には驕(おご)りが感じられないわけではないものの、アジアで独立を保ち、欧米列強に対抗できる力をもっていたのは日本しか存在してなかった以上、現実的に見てそれ以外の選択肢はなかったと言えるでしょう。

    日中戦争
    wikipedia:徳富蘇峰 より引用
    徳富蘇峰(とくとみ そほう)1863(文久3)年 – 1957(昭和32)年
    明治-昭和時代のジャーナリスト・評論家・史学家。月刊誌「国民之友」を主宰、「国民新聞」を発刊。当初は平民主義を主張していたが、日清戦争を機に皇室中心の国家主義思想家に転じる。

    『皇道日本之世界』『興亜之大戦』などを著し、大日本言論報国会会長につくなど盛んに文章報国を唱えた。アジア・モンロー主義の主張は有名。第2次大戦後公職追放。『毎日新聞』の社賓となって代表作『近世日本国民史』 (100巻) を連載した。文化勲章を受けるが後に返上。

    アジア・モンロー主義とは、アジア版のモンロー主義を意味しています。モンロー主義はもともと、アメリカが国是として掲げてきた主義です。

    わかりやすくまとめれば、モンロー主義とはこんな主張です。

    「アメリカ大陸の一部である中南米はアメリカの裏庭のようなものだから、ヨーロッパ諸国は干渉しないでくれ、その代わりアメリカもヨーロッパで何が起きても干渉しませんから!」

    つまり、モンロー主義とは、欧州に対するアメリカ合衆国による「アメリカ大陸縄張り宣言」です。中南米は地理的にも歴史的にもアメリカ合衆国と近く、密接な関係にある、だからアメリカは自衛のために中南米に干渉しなければならない、それについてヨーロッパ諸国が干渉することは許さない、その代わりアメリカもヨーロッパの出来事には干渉しない、と表明したのです。

    日中戦争
    https://www.mediastorehouse.com/ より引用
    アメリカのモンロー主義を諷刺した画

    一方的な縄張り宣言をして、ヨーロッパ諸国に文句を言わせないだけの国力がアメリカにはありました。もし、ヨーロッパのどこかの国がモンロー主義に逆らって中南米に干渉しようとすれば、アメリカは武力をもってこれを取り除くと宣言したわけです。

    モンロー主義に則り、アメリカは中南米諸国に対して武力を背景に様々な面で主導的な役割を果たしてきました。そのなかには侵略としか言いようのない干渉も含まれています。メキシコからテキサスをはじめ、ニューメキシコ・アリゾナ・カリフォルニアなどの広大な領土を奪取したことは、歴史的な事実です。

    アメリカによるモンロー主義があまりにも露骨な侵略行為を含むため、アジア・モンロー主義という言葉も誤解されがちですが、徳富蘇峰はこうも述べています。

    誤解する勿れ、吾人は亜細亜より白人を駆逐するか如き、偏狭なる意見を有するものにあらす。但た白人の厄介にならぬ迄の事也、自問の欧風を跋扈(ばっこ)を蕩掃(とうそう)する迄の事也。

    つまり、徳富蘇峰の説いたアジア・モンロー主義とは、日本人が東洋人の先頭に立って白人を退治するのではなく、白人に向かって東洋を理解せしめることなのだと述べています。この点において、アジア・モンロー主義は闘争主義の真逆を行くものです。

    日本から近いアジア、ことに隣国である中国の状態は、日本の自衛に直接影響してきます。そのため、多くの場合において日本は中国の内政にも政変にも関与しなければならない必要に迫られることがあり、内政干渉もやむを得ないことがあるのだと、欧米諸国に理解を求めることが、徳富蘇峰の説くアジア・モンロー主義といえるでしょう。

    「領土相近接する国家の間には特殊の関係を生じ、従って特殊の利益が存する」というモンロー主義の根っこにあたる部分を、アジアにそのまま当てはめたのがアジア・モンロー主義です。

    東亜新秩序の建設とは、まさに日本政府によるアジア・モンロー主義の宣言でした。

    その3.東亜新秩序声明をめぐる各国の反応

    東亜新秩序声明に先立つ1934(昭和9)年に天羽英二外務省情報部長が記者会見の席上で語った非公式談話が、欧米の反発を招いたことがあります。

    日中戦争
    百度百科:天羽英二 より引用
    天羽英二(あもう えいじ)1887(明治20)年 – 1968(昭和43)年
    大正-昭和時代の外交官。外務省情報部長のとき、日本は東亜地域の秩序維持に責任を持つ国家であり、列強による中国援助は日中の特殊関係を考慮すれば「主義として之に反対せざるを得ない」と述べた非公式談話「天羽声明」を発表。

    中国・欧米の反発を招いた。日独伊三国軍事同盟締結時の駐イタリア特命全権大使。大東亜戦争中は外務次官や内閣情報局総裁を務めた。戦後A級戦犯指名を受け、巣鴨拘置所に勾留。GHQにより公職追放の後、釈放。公職追放解除後は財団法人日本国際連合協会副会長兼事務局長・文部省日本ユネスコ国内委員会委員等を務めた。

    その頃、日本が満州での支配を固めたことに対して、アメリカ・イギリス・国際連盟は中国に向けて経済援助工作をしていました。そのことは日本の国益に反する行動でした。そこで天羽は、列国が中国に武器・軍用機などを供給し、軍事教官を派遣し、政治借款を供与することは日本としては黙過できないと語ったのです。

    満州事変以降の中国に対する日本の政策を警戒していた欧米各国は、天羽声明に対し日本が「アジア・モンロー主義」を宣言したと猛反発しました。日本政府はあわてて天羽に修正談話を発表させ、中国の独立と権益の尊重、列国の権利および門戸開放・機会均等主義の尊重を表明するとともに、広田外相も弁明を行うなど、アジア・モンロー主義の打ち消しに追われました。

    東亜新秩序声明が出た後も、欧米各国は一斉に非難に回りました。『ニューヨーク・タイムズ』は「日本は中国を支配する意図を認め他国に警告」との見出しを掲げ、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』は「日本は東アジア全体を支配する権利があると主張」と題した記事のなかで「日本・満洲・中国の政治的・経済的・文化的ブロックを創ることで、日本は東アジアに新秩序を打ち立てようとしている」と書き、『ロサンゼルス・タイムズ』も「近衛の声明は東アジアを支配しようという不変の意図の表れである」と批判を強めました。

    アメリカ政府も東亜新秩序声明に対して、日本の為した声明は九ヵ国条約に違反し、中国におけるアメリカの権益及び門戸開放の侵害に当たると、日本政府に強く抗議しました。

    国際世論の批判を受け、日本が天羽声明のときのように釈明に回るか否かが注目されるなか、有田八郎外務大臣は11月18日にアメリカに対して次のように回答しました。

    「今や、東亜の天地において新たなる情勢の展開しつつあるの秋に当り、事変前の事態に適用ありたる観念ないし原則をもって、そのまま現在および今後の事態を律せんとすることは、なんら当面の問題の解決をもたらす所以にあらざるのみならず、また東亜恒久平和の確立に資するものにあらざることを信ずる」

    太平洋戦争の起源』入江昭著(東京大学出版会)より引用

    日中戦争
    wikipedia:有田八郎 より引用
    有田八郎(ありた はちろう)1884(明治17)年 – 1965(昭和40)年
    明治-昭和時代の外交官・政治家。ベルギー・中国大使などを務めた後、広田内閣の外相となり日独防共協定を締結した。以後第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣・米内光政内閣の外相を次々に務め、外交界の長老として活躍。米内内閣では東亜新秩序の建設を推進。敗戦後、公職追放。解除後、衆議院議員に当選し、社会党に入党。三島由紀夫の小説『宴のあと』をプライバシー侵害と訴えた事件は有名。

    アメリカ政府が掲げた条約や原則は、もはや有効ではなく、日本が有効と認めることもないと、有田ははっきりと言明しています。日本政府によるワシントン体制の正式な否認であり、ワシントン体制に対する明らかな挑戦です。

    アメリカは有田声明を受けて12月にさらに再反論し、「日本が条約を無視して新秩序なるものを専断的に創造することを承認できない」と抗議しました。英仏からも同じ趣旨の抗議が寄せられています。

    歴史を振り返ったとき、東亜新秩序声明は日本と米英との目指すものが真逆であることを世界に向けて宣言したに等しく、両国の対立を避けられないものにしたと言えるでしょう。

    ただし、東亜新秩序声明を出した時点では日本側にそのような認識はありませんでした。近衛首相は列国はこの政策を正しく理解し、アジアにおける新情勢に対して再調整を図るであろうと楽観していたほどです。

    歴史を知る私たちから見れば、あまりにも脳天気かつ自己中心的な認識ですが、そのような認識は近衛首相に限っていたわけではありません。日本側は東亜新秩序声明によってイギリスと対立することにはなっても、アメリカと対立する事態にはならないとする見通しを立てていました。

    いったい日本は東亜新秩序の声明を出すことで、具体的になにがしたかったのでしょうか?

    その4.反帝国主義の旗の下に

    日中戦争
    http://www.geocities.jp/torikai007/ より引用
    1930年代の上海租界。イギリスの租界は中国の各地に設けられていた。

    東亜新秩序を建設するためには、当たり前ながら日中戦争を終わらせなければいけません。軍事的にはすでに決着は付いていました。

    重慶に押し込められた蒋介石政権の工業生産力は中国全体の6%に過ぎず、財政的にも困窮していました。しかも重慶には一千万人もの中国人難民が押し寄せ、本来であればもはや戦争を継続できる状態ではありません。

    では、なぜ蒋介石政権は未だに戦争を継続できるのかといえば、欧米による支援が為されていたからです。アメリカ・イギリス・フランス・オランダなどの欧米列強は、現在のベトナム北部にあたる仏印とビルマ雲南に通じる2つのルートから、蒋介石政権に対して多大な武器援助をしていました。そのため蒋介石政権は息も絶え絶えながらも、抗日戦線を維持できたのです。

    なかでも日本の軍部がもっとも目の敵(かたき)にしたのがイギリスです。欧米列強のなかでもっとも広大な租界をもち、もっとも中国に権益を有していたのはイギリスです。軍部は蒋介石政権にもっとも多大な援助を与えているのも、イギリスと見なしていました。

    日中戦争を終わらせるためには、なによりもイギリスによる蒋介石政権支援を止めさせる必要があると、軍部は判断していたのです。

    東亜新秩序を建設するにあたって、イギリスが中国にもつ広大な租界ほど邪魔な存在はありません。日本が東亜新秩序の基本理念に据えたのは反帝国主義です。

    力のある国が弱小国を一方的に踏みにじり、植民地として搾取する帝国主義を是とする世界の在り方に対し、そこには正義はないと異を唱えたのが東亜新秩序の構想です。東亜新秩序とは脱植民地主義であり、反帝国主義である、とするのが日本側の見解です。

    のちに日本は治外法権の撤廃・租界の返還を中国側に提示しますが、脱植民地主義である東亜新秩序の建設を呼びかけた以上は当然のことでした。そのことは、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国に対する要求でもありました。

    1938(昭和13)年6月の外務省の文書には、欧州列強の「東亜支配ノ遺物タル租界ノ返還等ヲ実施スルコト喫緊(きっきん)ノ最重要タリ」と日本政府の方針が記されています。

    中国の一部を事実上の植民地とする租界を欧州列強からすべて返還させ、不平等条約を解消させることは、東亜新秩序を建設するために避けては通れないことでした。

    徳富蘇峰の説いたアジア・モンロー主義は武力闘争を前提としていませんが、東亜新秩序声明におけるアジア・モンロー主義では欧州列強が中国における権益にしがみつき、あくまで手放さないのであれば、力に訴えてでも欧州列強の影響力を取り除くとする日本側の姿勢が表れています。

    アジアにおける帝国主義の元締めであるイギリスと対立する覚悟は、日本には十分にできていました。そのことをもって無謀とはいえません。当時の国際情勢は、イギリスにとって過酷でした。同年3月にはナチス=ドイツ軍がウィーンに進軍し、オーストリアを併合しています。

    日中戦争
    https://kuruc.info/r/6/189060/ より引用
    ヒトラー率いるナチス=ドイツ軍のヨーロッパ侵略が始まっていた。

    ヨーロッパはナチス=ドイツの侵略によって風雲急を告げていました。足下のヨーロッパが揺らいでいる時期に、遠く離れたアジアのことにかまっていられる余裕などイギリスにないことは明らかでした。

    今なら一戦交えなくとも、イギリスから大幅な譲歩を平和のうちに引き出せるに違いないといった読みが、日本側にはありました。

    東亜新秩序声明によって反帝国主義の狼煙(のろし)を上げるには、絶好の機会が訪れていたといえるでしょう。

    東亜新秩序を建設するにあたって最大の敵対国となるイギリスと中国の関係を絶つことは、日本にとって一刻も早く解決しなければならない重要な課題でした。

    その5.平和主義は絶対的に正しいか?

    東亜新秩序はアジアを支配する既存の秩序を破壊し、新たな秩序を打ち立てようとするものです。これまでの秩序を破壊する際、すでに権益を有する側が黙って引き下がることはほとんど期待できません。これまでの秩序を守りたい側と、ぶち壊したい側が武力闘争に至ることは、人類の歴史において何度も繰り返されてきました。

    多くの「革命」は、この構造で成り立っています。

    これまでの秩序を守ろうとする側から見れば、それを壊そうとしている側は平和に対する反逆者以外の何者でもありません。現在の秩序を壊そうと画策する者は、平和主義者や人道主義者から激しい非難を受けることになります。

    当時の日本も同じです。九ヵ国条約というワシントンで定まった世界的なコンセンサスが支配している世界を日本は破壊し、新たに東亜新秩序を建設しようとしました。その意味では日本は平和を破壊する者であり、異端者です。世界の平和を脅かす者として、欧米列強から非難が集中しました。

    しかし、近衛はすでに1918(大正7)年に「英米本位の平和主義を排す」と題された論文を雑誌に寄稿した際に、日本の立場からの弁明を終えています。
    ▶ 関連リンク 3-3.世界からノーを突きつけられた人種平等の夢-その3.英米本位の平和主義を排す

    その論文で近衛は、自分たちの過去の侵略を棚に上げて現状維持を平和主義・人道主義であるとし、現在の不平等を打破しようとする勢力を封じ込めるのは、欧米の利己主義に過ぎないと批判し、英米本位の平和主義を捨てるべきだと主張しました。

    首相になってからの近衛の言動とは異なり、若き日の近衛には毅然とした姿勢があふれています。この論文は当時、世界中で取り上げられ、話題を呼びました。

    近衛の東亜新秩序声明は、政府の方針として「英米本位の平和主義を排す」と世界に向けて宣言するものだったといえます。

    東京裁判では「平和に対する罪」という、これまで聞いたこともないような新たな戦争犯罪が設けられました。A級戦犯とは、この「平和に対する罪」で訴追された者を指します。

    近衛もA級戦犯とされた一人です。近衛が生涯をかけて排そうとした「英米本位の平和主義」に近衛自身が裁かれることになるとは、運命の皮肉さを思わずにはいられません。

    好き放題に侵略を繰り返し、世界中に植民地を広げ、多くの人々を奴隷状態においた不平等な世界をそのまま維持することが「英米本位の平和」の正体です。

    「平和主義」は耳障りがよい言葉だけに絶対的に正しいと思いがちですが、そのなかにも実は多くの矛盾をはらんでいます。

    帝国主義によって築かれた不平等な世界を破壊し、アジアをアジア人の手に取り戻そうとした東亜新秩序は、戦いに敗れたがために「(英米本位の)平和に対する罪」として裁かれることになったといえるでしょう。

    その6.アメリカとの共存を求めて

    ー アメリカとイギリスの違いとは ー

    東亜新秩序声明によって日本にとっての理想を追いかける宣言をしたものの、日本とて闇雲に理想に走ったわけではありません。東亜新秩序を建設するとの宣言が、直ちに米英との対立を意味していたわけではないからです。

    当時の日本はアメリカとイギリスとが必ずしも歩調を合わせて行動するとは判断していませんでした。そこで日本は東亜新秩序声明のあとから、イギリスとアメリカとで外交方針を大きく変えるようになります。

    イギリスとは対立し、アメリカとは協調する、それが日本外交の基本方針となったのです。その違いを生んだのは、イギリス・アメリカ両国と中国との関わり方に大きな差があったからです。

    イギリスはアヘン戦争以来、中国を半植民地化した帝国主義の国です。一方、アメリカは「門戸開放」を要求しただけで、中国に関しては非帝国主義の国です。

    つまり、反帝国主義を旗印として掲げる東亜新秩序の建設においてイギリスは明らかな敵ですが、アメリカはけして敵ではなく、むしろ理想を実現するためになくてはならないパートナーであると、日本はみなしました。

    その結果として東亜新秩序に基づく外交として日本は、反英と親米とを同時に追求することになったのです。

    今日では一般的に東亜新秩序は、侵略戦争を正当化する理論としてのみ記憶されています。しかし、東亜新秩序が誕生した当初においては、あくまで反帝国主義・脱植民地主義に基づく理念でした。

    イギリスとは敵対、アメリカとは協調することで東亜新秩序を建設できると、当時の日本政府と軍部は本気で考えていたのです。

    ー パネー号事件に象徴される対米関係 ー

    アメリカとの協調は、東亜新秩序の声明以降に急激に高まったわけではありません。日本はかねてより中国に対する特殊権益を主張してきましたが、それでもアメリカとの関係が悪化することだけは避けてきました。

    たとえば、1937(昭和12)年12月に揚子江上のアメリカの砲艦パネー号を日本軍が中国艦と見誤って爆撃し、沈没させるという事件が起きています。アメリカの世論は、これに激高しました。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    パネー号(パナイ号)。1928年8月30日の中国にて撮影。

    ちなみにパネー号には、敗走する中国の将兵と武器が満載されていたと記述する歴史書もあります。アメリカやイギリスは中立を装いながらも、蒋介石政権を支援していました。今となってはパネー号についての真相はわかりませんが、日本側が弁明しようと思えばできる状況にあったと推察されます。

    しかし、日本はアメリカとの関係が悪化することを恐れ、政府も軍部も即座に責任を認め、謝罪に回りました。いつもは強気の論調を載せる新聞でさえも、アメリカへの謝罪を前面に押し出しています。

    アメリカでは日本軍が故意に爆撃をしたと認識されていただけに、事態は深刻でした。1898(明治31)年にはメイン号が原因不明で爆沈されたことから、アメリカはスペインに宣戦を布告し、米西戦争が起きています。

    一触即発の危機のなか、事態の沈静化をもたらしたのは、斎藤博駐米大使によるラジオ放送でした。斎藤は訓令を待たずにすぐに全米中継のラジオ放送枠を買い取り、アメリカ国民に直接事情を説明し、誠意を尽くして謝罪しました。

    日中戦争
    wikipedia:斎藤博 より引用
    斎藤博(さいとう ひろし)1886(明治19)年 – 1939(昭和14)年
    大正-昭和時代の外交官。大使館書記官・総領事として米英に駐在、パリ平和会議・ワシントン・ロンドン両軍縮会議随員などを経て外務省情報部長。英大使館参事官・オランダ公使を経てアメリカ大使に就任。パネー号撃沈事件では政府の訓令を待たずに謝罪放送を行い、両国間の危機を救った。

    日米関係調整に多大な貢献をした。外相就任の誘いがあったが健康を理由に固辞。そのままワシントンで死去。アメリカ政府は斎藤の死を惜しんで巡洋艦「アストリア」に遺骨を載せて日本本国に送ったことで知られている。

    斎藤の機転の利いた行動と日本側がアメリカに対して 221万 4000ドルの賠償金を支払うことで、パネー号事件は日米関係を損なうことなく収束に向かいました。

    満州や中国で著しく勢力を伸ばした日本ですが、パネー号事件での対応ぶりを見ると、アメリカに対して常に特別な注意を払っていたことがわかります。東亜新秩序の建設に際しても、アメリカを排除することなく如何(いか)に理想を実現するかは日本にとっての大きな課題でした。

    ー アメリカによる対中投資への期待 ー

    日本経済はアメリカに依存していました。ことに金属・機械類・石油などの輸入はアメリカに深く依存しており、それなしには日中戦争の継続さえ不可能な状況でした。

    東亜新秩序にしても、アメリカに依存せざるを得ない事情は同じです。対米関係を損なう事態に陥ると、日本・満州・中国の経済は成り立ちません。となれば、東亜新秩序を建設するにあたり、アメリカが求める門戸開放を実現することは絶対に必要なことでした。

    そこで日本はアメリカ資本を導入することで、東亜地域の経済開発を推し進めようと計画しました。外務省の文書にも、そうした構想が記されています。日本はアメリカの対中投資を渇望していました。

    もともと東亜新秩序の構想は、東京帝国大学教授の磯山政道を中心として練り上げられました。磯山は日中戦争下、日本は中国の「住民の生存と生活の向上」のために、「合理的な開発と計画」を「樹立遂行」することを政策構想としていました。

    実際、日本は経済開発のための対中投資を日中戦争の間に積極的に行いました。盧溝橋事件の前後の2年間で日本の対中投資は倍増しています。公共事業・交通通信事業・鉱工業などのインフラ投資のために、日本は台湾や韓国にしてきたことと同様に、中国の占領地に資金を惜しみなく投下したのです。

    その負担は日本経済に重くのしかかっていました。だからこそ日本はアメリカの対中投資を喉から手が出るほどに望んでいました。

    つまり、日本の考える「東亜新秩序」とは、あくまでアメリカ・日本・中国が経済的に密接に繋がることで、はじめて実現する構想だったのです。

    ー 東亜新秩序は排他的経済ブロックにあらず ー

    東亜新秩序声明は国際的には日本の門戸閉鎖宣言と受け止められていますが、日本側の真意としては排他的な経済ブロックを築くことを目的とはしていません。

    同様の趣旨のことは石橋湛山も次のように指摘しています。

    「支那と列国との貿易を阻害し、其の経済関係を遮断することは、取りも直さず支那の経済的発展を妨害し、従って日本の対支貿易の増進をも遅滞せしむる結果を齎(もたら)すに過ぎないからである」

    日中戦争
    wikipedia:石橋湛山 より引用
    石橋湛山(いしばし たんざん)1884(明治17)年 – 1973(昭和48)年
    大正-昭和時代のジャーナリスト・政治家。第55代内閣総理大臣。東京毎日新聞を経て東洋経済新報社に入り、自由主義的経済評論家として活躍。大正デモクラシーをリードする一人となり、植民地(満州)放棄を主張した。東亜新秩序の建設は支持。戦後は政治家となり、第1次吉田内閣の大蔵大臣を務めた後、公職追放。

    追放解除ののち鳩山内閣の通産大臣を経て、総裁選挙で岸信介を破り首相となった。翌年には病気のため引退。その後、中国・ソ連を訪問し日ソ協会会長に就任するなど、共産主義諸国との親善に力を注いだ。

    日本が排他的な経済ブロックに走れば中国の経済が発展しなくなるため、日中間の貿易も停滞することになり、日本にとって好ましくない結果となる、だからこそ日本はアメリカをはじめとする諸外国に対して経済的な門戸を閉ざすことを目指さない、との主張です。

    石橋は諸外国との経済的な相互依存関係が拡大することによってのみ、東亜の経済圏が発展すると考えました。日本が目指したものは経済の国際化であるとし、東亜新秩序の建設を支持したのです。

    思えば日本は欧米による経済ブロックによって多大な不利益を被ってきました。世界大恐慌をきっかけに欧米が保護貿易に走り、経済ブロックを作ることで日本の貿易を阻害することさえなければ、日本は満州事変を起こさなかったかもしれません。
    ▶ 関連リンク:4-1.満州事変はなぜ起きたのか-その2.満州は唯一の希望だった

    経済的には発展途上国に過ぎず、資源に恵まれていなかった日本は、国民が生きるために貿易を必要としていました。経済先進国がブロック経済に走ることなく自由貿易へと舵を切ってくれるのであれば、通商貿易を拡大させる機会を得られるだけに、日本にとっては望むところです。

    だからこそ日本は、世界経済がネットワーク化され、自由に貿易が為されることをずっと望んでいました。それにもかかわらず、自ら東亜に経済ブロックを築き上げ、自分の首を絞めるような真似をする必要など、日本にはありません。東亜新秩序から外国資本を締め出す必要など、まったくなかったのです。

    東亜新秩序ははじめから、閉鎖的な経済ブロックを目指すものではありませんでした。中国を半植民地化することは頑として許さないものの、経済的には門戸を開放することで、反帝国主義・脱植民地主義に基づいた自由貿易による新たな世界秩序を東亜に打ち立てることこそが、日本が目指したものでした。

    東亜新秩序が先駆けとなり、アメリカと手を携えることで世界が自由貿易で結ばれることを日本は夢見たのです。

    ー 独りよがりの楽観論 ー

    日中戦争を通して日本から中国への輸出も急激に増加しています。ただし、満州と同様に円で取引されていたため、どれだけ輸出が増えても外貨を獲得することにはつながりませんでした。

    結局のところ、中国に対して輸出が増えれば増えるほど国際収支が悪化し、アメリカなどの第三国に対して赤字が増加するという悪循環が生じていたのです。

    日中の経済提携を進めるほどに、日本経済は追い詰められていきました。国際収支を改善するためには輸出を拡大するより他に道はありません。そうなるとアメリカへの依存はますます強まることになります。

    軍部もまた、東亜がアメリカ経済に依存しているだけに対米関係の調整は不可欠との認識をもっていました。

    南京陥落前後の昭和一二年一二月一五日付の大本営陸軍部による日中戦争収拾案には、次のように記されている。「対米親善の為経済上の提携及輿論の好転に努め……日満支対米間の経済関係を調整利導す」。また戦時物資の動員計画を立案する企画院の昭和一四年三月のある文書も、アメリカからの「新支那建設に対する好意ある経済的協力を誘導す」と同様の方針を踏襲している。「東亜新秩序」の確立のためには、対米関係の調整がもっとも重要であるという点で、外務省と軍部との間に対立はなかった。

    増補 アジア主義を問いなおす』井上寿一著(筑摩書房)より引用

    なにかと対立することが多かった政府と軍部ですが、中国の門戸を開放することでアメリカとの協調を図ろうとする姿勢は共通していました。

    アメリカもまた、中国の門戸開放をずっと主張してきただけに、東亜新秩序を建設することで門戸開放を実現しようとしたことへの支持はきっと得られるに違いないと、日本側は楽観していました。

    それが独りよがりの思い違いに過ぎなかったことを、日本はまもなく気づかされることになります。

    その7.汪兆銘工作の末路

    ー 東亜新秩序声明のもう一つの目的 ー

    近衛首相の東亜新秩序声明にはワシントン体制との決別の他に、もう一つの目的がありました。それは「国民政府を対手とせず」とした先の近衛声明を修正することです。

    近衛は今回の声明で、「新秩序建設のために支那国民に協力を求め、国民政府といえども従来の指導方針を捨て、人的構成を改替して更生の実を挙げるならば、新秩序建設への参加をこばむものでない」と表明しました。

    つまり、新秩序の建設に協力してくれるのであれば国民政府であっても受け入れると宣言することで、国民政府の新秩序体制への参加を呼びかけたのです。

    曖昧(あいまい)な表現であるため日本政府の意図がどこにあるのか推測の域を出ませんが「国民政府が従来からの方針である対日抵抗と親共産政策を取りやめるのであれば、日本は国民政府と協調することで東亜の新秩序確立を目指す」との意思表示であると解釈できます。

    日本側としては、呼びかけに応じて蒋介石が協力してくれることを期待するところもあったと思われます。

    それと同時に日本は、国民政府のなかにも東亜新秩序を目指して日本に味方してくれる勢力が現れてくれることにも期待をかけていました。

    宇垣外相による和平工作が失敗した後も、水面下で国民政府との和平工作は着々と進められました。その過程で日本側は国民党副総裁であった汪兆銘と接触することで、好感触を得ていました。

    日中戦争
    ウィキペディア より引用
    タイムの表紙を飾る汪兆銘(1935年3月18日号)

    日中戦争
    wikipedia:汪兆銘 より引用
    汪兆銘(おう ちょうめい)1883年 – 1944年
    中国の政治家。清末日本の法政大学に留学中、中国同盟会に加入。清朝要人の暗殺に失敗して死刑の宣告を受けたが、辛亥革命の成功により釈放。広東政府要人として孫文を助け、その死後は中国国民党左派の指導者として蒋介石と対立した。まもなく共産党と絶縁し武漢政府主席となるが、蒋介石との蒋・汪合作政権をつくり、行政院長・党副総裁を歴任。

    日中戦争が始まると和平救国を唱えて、日本との提携を主張。重慶を脱出し、反共と対日和平を掲げて南京国民政府を樹立するも、事実上日本軍の傀儡政権で終わった。名古屋にて客死のあと遺体は南京郊外の梅花山に埋葬されたが、国民党によって終戦後、墓を破壊された。

    中国では「日本に寝返った最悪の裏切り者」と評価されているが、近年では汪を再評価する研究も発表されている。

    日本に対して徹底抗戦を叫ぶ蒋介石に対し、汪は対日抗戦による民衆の被害に心を痛め、日本との和平を訴えていました。汪はことに蒋介石が推し進める焦土戦術(日本軍の戦力を弱めるために、無差別にすべてのものを破壊・焼却する戦術)に強く反対していました。そこで日本は、いつまでも埒(らち)があかない国民政府とは別に、和平派の中心人物である汪を担ぎ出すことで和平を図ろうとする汪兆銘工作を仕掛けたのです。

    東亜新秩序声明は汪を支援する声明でもありました。国民政府と袂(たもと)をわかつ決意をした汪とともに多くの離反者が出てくれることを、日本政府は期待しました。

    ー 汪兆銘の重慶脱出 ー

    日中戦争の政治的解決を図りたいという日本側の意向に応じて、1938(昭和13)年12月18日、汪はついに重慶脱出を決行しました。

    これで国民政府に代わり、汪を首班とする新たな政府を作れると日本側は喜んだのですが……。日本側の期待に反し、汪に続く離反者は現れませんでした。汪グループの数人が続いたのみで、汪に同調していたはずの地方の将軍たちは誰一人、後に続かなかったのです。

    この時点で、汪兆銘工作は失敗していたといえるでしょう。近衛は汪の動きに応じて第三次近衛声明を出していますが、それは汪とかねてより打ち合わせていた内容とはほど遠いものでした。

    それでも汪は12月29日、国民政府に対して対日和平を提議する通電(艶電)を発しています。

    「中国の抗戦と目的は国家の生存と独立にある。正義に合致する平和で戦争を収束できるなら、国家の生存と独立は保持できるのであるから、抗戦目的は既に達成されたことになる」

    汪は蒋介石に対して日中の和平を呼びかけましたが、「是非を転倒して敵の肩を持つもの」と批判され、売国奴として党籍永久剥奪の処分を下されました。

    日中戦争
    http://hkskc.blogspot.com/2013/11/ より引用
    並んで立つ汪兆銘(左)と蒋介石(右)

    蒋介石は日本の示した東亜新秩序の構想と汪の重慶脱出に際して、鋭い批判を浴びせています。蒋は田中上奏文を引き合いに出し、日本は中国を屈服させ全世界を征服しようとする野望を隠しているのだと、国民に対して警告を発しました。

    その上で東亜新秩序は中国の独立を失わせるための口実に過ぎないと断じ、中国は日本の世界征服を防ぐために全世界のために正戦を戦っているのだと主張しました。

    最後に「徳は孤ならず必ず隣あり」と述べ、世界各国が正義の戦いを続ける中国に協力してくれる日が来るという望みを捨てることなく、中国は喜んで犠牲を捧げるのだと結びました。

    1940(昭和15)年3月に汪を主席代理とする南京国民政府が樹立されましたが、その実態は汪の望みとは裏腹に日本の傀儡政権に過ぎないものでした。

    結局のところ、東亜新秩序に対する中国側の理解はまったく得られることなく、日中間の溝はますます深まることとなったのです。

     
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    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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