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    #47 ソ連を巡る当時の世界情勢と各国の軍事力比較

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    前回の記事はこちら
    第1部 4章 北部仏印進駐(7/7)石油を求めて日・蘭印交渉へ

    日本はなんのために戦ったのか

    3.独ソ戦の衝撃がもたらした南進への道

    独ソ戦
    Operation Barbarossa: or the Beginning of the End for Hitler.より引用
    バルバロッサ作戦が発動され、ドイツ軍は突如ソ連国境を越えて侵攻を開始した

    第二次世界大戦を振り返ったとき、大きな転換点となった事件を2つあげることができます。ひとつは日本軍による真珠湾攻撃です。これによってアメリカが参戦することになり、大東亜戦争と第二次世界大戦がリンクしました。

    もうひとつはドイツ軍が突如ソ連領内に侵入したことから始まった独ソ戦です。当時の世界情勢から独ソ開戦は十分に予想されていたことでしたが、実際に起きてみると世界中が衝撃に包まれました。

    日本とて例外ではありません。三国同盟をドイツと結んでいた日本にとって独ソ開戦はけして対岸の火事ではなく、その燃えさかる火の粉は日本を直撃しました。

    独ソ開戦の前後を通して日本の指導者たちは、今後の日本の身の振り方について真剣に議論し合いました。それは、戦前の日本にとって極めて重要な岐路でした。

    独ソ開戦後に決せられた日本の方針は結果的に日米開戦を引き寄せ、1945(昭和20)年8月6日の広島、8月9日の長崎という悲劇を呼び寄せることになります。

    日米開戦の遠因は満州事変にまで遡ることができますが、直接の原因として多くの識者が指摘するのは日本軍による南部仏印進駐です。南部仏印進駐が決せられたのは、独ソ開戦後の1941(昭和16)年7月2日に行われた御前会議でのことでした。

    その意味では、この7月2日の御前会議こそは、日本にとってのポイント・オブ・ノーリターン(もはや後戻りできない段階)であったといえるでしょう。

    1941年の春頃までは、まさか日本がアメリカと戦争をすることになると思っていた首脳陣は皆無といってよい状況でした。軍部にしても政府にしても、アメリカとの戦争だけは避けようと動いていたからです。

    ところが独ソ戦のもたらす余波に足下をすくわれた日本は、日米開戦へと駒を進めてしまいます。アメリカとの戦争を避けるべく立ち回っていたはずなのに、日本はなぜ日米開戦へ向けた一歩を踏み出してしまったのでしょうか?

    その謎を解く鍵は独ソ戦が握っています。そこで今回は独ソ戦が日本に及ぼした衝撃の深さをたどりながら、独ソ戦勃発に際して日本が何を考え、どう動いたのか、日本の運命を決めた7月2日の御前会議に至るまでの過程を追いかけてみます。

    その1.ソ連を巡る当時の世界情勢

    ー ソ連が握る勝敗の鍵 ー

    独ソ戦
    日本のターニングポイント④~第二次世界大戦起こる!より引用
    ナチス・ドイツはポーランド侵攻以来、次々にヨーロッパ諸国を侵略した

    1939(昭和14)年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻から端を発する第二次欧州大戦は、1940(昭和15)年6月にフランスが降伏するに至り、ドイツがヨーロッパのほぼすべてを制覇しました。残るはイギリス一国のみです。

    当初はイギリスがドイツの軍門に降るのも時間の問題とみられていましたが、イギリスは頑強に抵抗を続け、ドイツの侵攻を阻んでいました。その背景には日独伊の枢軸国と、イギリスをあからさまに支援するアメリカとの対立軸が横たわっています。

    アメリカは直接には参戦していないため、現状では枢軸国の軍事力が優位に立っていました。しかし、アメリカが出てくるとなると両者の軍事力は逆転します。アメリカの参戦は枢軸国側が最も恐れていることでした。

    ただし、アメリカ政府が参戦を望んでも、実際には参戦できない理由がありました。アメリカ国民の大半がヨーロッパで起きた戦争に巻き込まれることを嫌がっていたためです。当時のアメリカ国民の多くが平和を志向していた様は、現在の日本に当てはめてみれば、すんなりと理解できることでしょう。

    第一次世界大戦にて多くの犠牲者を出したアメリカ国民は、自国の安全とは関係ない遠隔地での戦争に参戦することを、きっぱりと拒否していました。アメリカは民主主義の国です。世論の大半が戦争反対を唱えていては、いかにルーズベルト大統領が血気にはやったとしても参戦できるはずもありません。

    独ソ戦
    wikipedia:フランクリン・ルーズベルト より引用
    【 人物紹介 – フランクリン・ルーズベルト 】1882年 – 1945年
    アメリカの政治家。第32代大統領(1933年 – 1945年)。第26代大統領のセオドア・ルーズベルトは従兄に当たる。名前のイニシャルをとってFDRと呼ばれることも多い。アメリカ史上唯一の重度の身体障害を持った(両足が不自由だった)大統領であり、アメリカ政治史上で唯一4選された大統領。

    ウィルソン大統領のもとで海軍次官となり、アメリカ海軍の拡張に尽力。ニューヨーク州知事を経て大統領就任。世界恐慌に際してニューディール政策を敢行し、アメリカ経済を建て直す。「中国びいき」で知られ、日中戦争の際に蒋介石を強く支持し莫大な軍事費の借款を行った。

    シカゴにて「隔離演説」を行う。一方、日本に対しては敵がい心を剥き出しにした徹底した対日強硬策をとり、対日政策として石油を売らない経済制裁を実施、対日開戦の直接のきっかけとなるハルノートを突きつけた。日本の真珠湾攻撃を契機に第二次大戦に参加。史上最大の軍拡・軍需経済・戦時経済の著しい増大によってアメリカ経済を完全に回復させた。大戦中は日系アメリカ人強制収容を行う。

    チャーチル・スターリンとのヤルタ会談では、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に日ソ中立条約の一方的破棄によるソ連の参戦を促した。第二次世界大戦の勝利を目前に脳卒中で倒れ死亡。歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。しかし、日米開戦に至る陰謀論や人種差別者であったこと、及びソ連共産党への友好的な態度には批判が絶えない。

    強大な軍事力を誇るアメリカが参戦できない事情を抱えるなか、この時代の鍵を握っていたのはソ連の存在でした。

    参考までに、第二次大戦勃発時の各国の軍事力を表した図表を再掲します。

    独ソ戦
    『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著(新潮社)より引用

    ソ連の軍事力がどれだけの脅威であったのかは、図表をひと目見れば把握できることでしょう。

    強大な軍事力をもつソ連が枢軸側と英米側のどちらにつくかで、軍事力のバランスは大きく傾くことになります。

    そのため枢軸国にとっても英米にとっても、ソ連を取り込むことは大きな関心事でした。現状では独ソ不可侵条約が結ばれているため、ソ連は枢軸国側に近いと見られていました。ソ連は独ソ不可侵条約でドイツと交わした密約を最大限利用し、ポーランドやフィンランドなどを侵略していたのです。

    枢軸国側にしても英米側にしても、ソ連を取り込む上で考えなくてはならないのが、ソ連という国家と自国との大きな隔たりでした。ソ連建国以来の国是は世界共産主義の実現です。一切の資本主義国を打倒してプロレタリア独裁の唯一の世界をつくることこそが、ソ連の目指していた理想でした。

    「世界のすべての国に革命の烽火(ほうか)を揚げよ」とソ連は叫び続け、コミンテルン第一回世界大会では『全世界のプロレタリアートに対する宣言』にて、世界のすべての国の労働者に「ソ連の旗の下に結集せよ」と呼びかけました。

    独ソ戦
    ロシア革命の真実「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だったより引用
    ロシア革命の絵画、全世界のプロレタリアート(労働者階級)の結集こそが共産革命の骨子だった

    共産主義革命を推し進めたいからこそソ連は、ひたすら軍備増強に励んできたのです。
    5-13.共産化を防ぐための孤独な戦い – その3.日本はソ連を侵略したのか ー どちらが軍国主義国か ー

    まだ共産主義に染まっていないあらゆる国家にとって、ソ連の目指す共産主義革命は自国の政治体制や治安を乱す行為であり、けして容認できないものです。

    しかし、大戦に勝利するためにはイデオロギーを越えて、ソ連を自陣営に取り込む努力が続けられました。1941年にソ連がどちらかの陣営に付くということは、戦争の勝敗をも大きく左右することを意味していたのです。

    ー ソ連を巡る陸海軍の対立 ー

    独ソ戦
    Remembering the russian revolutionより引用
    ロシア革命を成し遂げたマルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの肖像画の入ったポスター、陸軍にとっての仮想敵国は常にソ連(ロシア)だった

    日本にとってもソ連の掲げる共産主義革命は、忌むべき存在でした。日本の国体である天皇制と共産主義とが相容れるはずもありません。陸軍軍人を筆頭に当時の日本人の多くは、共産主義国ソ連はいずれは打倒しなければならない敵国だと考えていました。

    海軍に比べて、とりわけ陸軍にソ連を忌み嫌う空気が強いことには理由があります。陸軍は満州や朝鮮など大陸での権益を守るために、常にソ連(以前はロシア)と利害が衝突してきました。そのため、陸軍はソ連と対峙する北へ向けて軍を進めることを伝統としてきました。

    しかし、ノモンハンでソ連に大敗したと信じ込まされたこと、及び独ソ不可侵条約の締結を受けて、陸軍は1940(昭和15)年からは日ソ国交調整を主張するようになりました。目先の利を追いかけるのであれば、日ソの融和が望ましいと判断したためです。
    ▶ 関連リンク:5-13.共産化を防ぐための孤独な戦い – その5.ノモンハン事件の真相とは

    とはいえ、ソ連との国交調整はあくまで一時しのぎに過ぎません。陸軍にとって第一の仮想敵国がソ連であるという伝統には何ら変わりがなく、いずれは倒すべき相手でした。

    一方、海軍は海を守ることが任務です。当時、日本海軍と肩を並べるだけの力をもっていたのは米海軍です。そのため海軍は常に対米戦に備える必要がありました。フィリピンや英領マレー・蘭印などがある南を見据えることが、海軍の伝統です。

    陸軍は対ソ連を意識して北へ進みたがり、海軍は対アメリカに備えて南へ進みたがる傾向にありました。こうした陸海軍の対立は予算取りにも表れています。

    軍を動かすにも、戦備を増強するにしても、予算が確保できなければ何もできません。すべての官庁が予算を少しでも多く取ろうと画策するように、陸軍にしても海軍にしても予算を巡って諸々の駆け引きが生じていました。

    海軍にとっての懸念は、陸軍が対ソ戦へと日本を引きずっていくことでした。そうなると予算と資材のほとんどを陸軍に持って行かれます。海軍としては、これは何としても避けたい事態でした。だからこそ海軍は、ソ連との緊張緩和を一貫して求め続けてきました。

    陸軍と海軍とでソ連に対する温度感が大きく異なることは、独ソ開戦に伴う北進か南進かを巡る対立を生み出し、日本のその後の運命を大きく左右することになります。

    参考URLと書籍の一覧はこちら
    大東亜戦争シリーズの年表一覧はこちら

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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