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    レキシジン第1部「大東亜/太平洋戦争への流れ」5章「日本はなぜ戦争をしたのか」#97 日本を動かした国益と恐怖と大義〜トゥキュディデスの三要素〜

    #97 日本を動かした国益と恐怖と大義〜トゥキュディデスの三要素〜

    「大東亜/太平洋戦争の原因と真実」目次と序文はこちら

    第1部 侵略か解放か?日本が追いかけた人種平等の夢

    5.日本はなんのために戦ったのか

    前回は日本が侵略国と非難される理由について、パリ不戦条約との絡みを中心に紹介しました。

    今回からは本題である「日本はなんのために戦ったのか」に踏み入っていきます。

    5-3.国益と恐怖と大義

    その1.さまざまな解釈

    日本はなんのために戦ったのか、そしてなぜ戦争になったのか、その認識をめぐってはさまざまな解釈が成り立ちます。

    自虐史観に立てば侵略のために戦ったことになります。一方、自存自衛のための止むに止まれぬ戦いであったとする論もあれば、覇権をめぐる争いであったとする論、新たな世界秩序をめぐる戦いであったとする説、宿命的な人種戦争であったとする論などがあります。

    以下、ざっと見ていきます。侵略については前節にて記したため、今回は省きます。

    - 自存自衛のための戦い -

    「自存自衛」は、日本が米英に突きつけた宣戦の詔勅に出てくる言葉です。なぜ「自存自衛」の戦いを起こす必要に迫られたのかと言えば、英米蘭の経済制裁により石油を一滴たりとも輸入できなくなったからです。

    資源に恵まれていない日本は、ほとんどの重要物資を輸入に頼っていました。石油をはじめとする重要物資が入ってこなくなれば、国内の多くの産業が成り立たなくなります。また、明治以降必死に蓄えてきた軍事力も、石油がなくなればただの張りぼてと化します。

    そうなってから米英に戦争を仕掛けられたのでは全面降伏するよりなく、最悪の事態に至れば日本が滅んでしまいます。

    だからこそ日本は自存自衛のために戦うより他に選択肢はなかった、とする考え方です。

    - 覇権をめぐる争い-

    世界の歴史を見れば、強国同士が一定の地域の覇権をかけて争うことが繰り返されてきました。

    こうした覇権争いを捉えて、古代ギリシアの高名な歴史家であるトゥキュディデスは、「新たな覇権国の台頭とそれに対する既存の覇権国の懸念が戦争を不可避にする」との仮説を打ち立てました。これが「トゥキュディデスの罠」です。

    トゥキュディデス
    wikipedia:トゥキュディデス より引用
    【 人物紹介 – トゥキュディデス 】紀元前460年頃 – 紀元前395年
    古代ギリシアの歴史家・政治家。ペロポネソス戦争に従軍、戦争中に失脚し、亡命。ペロポネソス戦争を叙した史書『戦史』で知られる。
    歴史の主役が人間性そのものであることを鋭く看破した最初の歴史家とされ、人間が人間であるかぎり妥当性をもつ歴史記述の方法を明示してこれを実践しようとした最初の歴史哲学者として、後世から高く評価されている。

    たとえば日清戦争や日露戦争は、主として朝鮮半島をめぐって、新たな覇権国である日本と古くからの覇権国である清国、および覇権を半ば確立した日本と新たな覇権を狙うロシアとの覇権争いといえます。

    対米英蘭戦争にしても同様で、太平洋とアジアの覇権をかけて既存の覇権国である米英と、新たな覇権国である日本との対立が深まり、戦争を避けられなかったと考えられています。

    - 新たな世界秩序をめぐる戦い -

    連合国側は第二次世界大戦を、パリ不戦条約に基づく新たな世界秩序と、パリ不戦条約以前の「力が正義」である旧世界秩序に引き戻そうとする枢軸国側との戦いであるとみなしています。

    一方、日本は大東亜共栄圏という新たな秩序をアジアに打ち立てるための戦いであるとしています。日本が打ち壊そうとしたのは、欧米諸国がアジアを支配するという旧秩序です。植民地支配を続ける欧米諸国を追い出し、アジア人によるアジアを取り戻そうとする理想が大東亜共栄圏に込められています。

    ただし、大東亜共栄圏という美名の下に、欧米に代わって日本がアジアに覇権を築こうとする意図が隠されていたことも否定できません。いつでも勧善懲悪を為す個人が現実には存在しないように、国家もまた理想よりも国益を重視して行動するため、ときには理想に反することもします。

    - 宿命的な人種戦争 -

    大東亜戦争を人種戦争であると考える視点は、学校ではけして教わりません。そのため、欧米の白人が有色人種に向ける激しい人種差別こそが戦争の原因になったとする説をはじめて知ると、驚くかもしれません。

    しかし、このことは昭和天皇が「大東亜戦争の原因」について、次のように語っていることからも明らかです。

    「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后(後)の平和条約の内容に伏在している。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州(カリフォルニア州)移民拒否の知きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
     かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上った時に、之を抑へることは容易な業ではない」

    昭和天皇独自録』寺崎英成, マリコ・テラサキ・ミラー著(文護春秋)より引用

    昭和天皇は具体的に、第一次世界大戦後の国際連盟設立に際して、日本が掲げた「人種差別撤廃条項」が拒絶されたこと、及びカリフォルニア州に端を発する日本人移民排斥問題を列挙しています。

    これらについての詳細は以下の記事を参照してください。

    明治以降の日米関係のなかに、人種差別の萌芽は確実に見受けられます。また日本人ばかりでなく、当時の白人が有色人種に向けた剥き出しの悪意はアジア全土を覆い、アジアに暮らす人々に塗炭の苦しみを与えていました。

    大戦前の世界においては、人間を肌の色で差別することが当たり前とされました。人間として扱われるのは白人のみであり、有色人種は対等の人間としては扱われず、猿に近い別の生物であるかのような扱いを受けていたのです。

    たとえば先に紹介した、戦争を合法とする国際法にしても、適用されるのは白人からなる文明国のみです。

    人間とは見なされない有色人種の国は非文明国とされ、国際法の枠外におかれました。殺戮や略奪などの蛮行が自由に行われたのは、そのためです。

    アジア各地が欧米諸国の植民地とされ、現地に暮らすアジアの民族が奴隷のような扱いを受けていた時代は、私たちから見ればはるかな過去であり、現在の自分との繋がりを見出すことはできません。

    しかし、当時を生きる私たちの父祖からすればリアルタイムに進行している出来事であり、アジアの同胞のために義憤を感じずにはいられなかったことでしょう。

    我らとて人間である、有色人種とて生きる権利がある、アジアの民族とて他の民族と同様の権利をもつべきである、そうした父祖たちの思いが、米英との人種戦争へと日本を走らせた面があったことも事実です。

    大東亜戦争を人種戦争と見なすか否かの判断は、後世に託された課題と言えるかもしれません。

    その2.トゥキュディデスの「三要素」

    これまで見てきたように、大東亜戦争の原因についての考察は数多くあります。どの見解が正しいのかと議論してみたところで、たいした意味はありません。原因をどれかひとつに特定すること自体、賢明とは言えません。

    さまざまな要因が折り重なることで、大東亜戦争へと至ったことは間違いありません。

    そこでここでは、先に「トゥキュディデスの罠」で紹介した古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスが、戦争の原因としてあげた三要素について見てみます。

    この「トゥキュディデスの三要素」は、紀元前5世紀にアテネとスパルタの間で起きたペロポネソス戦争の原因を考察したものですが、その後の多くの戦争にも不思議と当てはまることで有名です。

    トゥキュディデスが戦争の原因としてあげた三要素とは、利益・恐怖・名誉です。これを現代の感覚で修正すれば「利益」は「国益」に、「名誉」は「大義」に置き換えることができます。

    即ち、大東亜戦争が起きた原因を「国益・恐怖・大義」の3つの要素に求めることができます。この3つの要素が相互に密接に絡み合うことで大東亜戦争へと至ったと考えると、日本がなんのために戦ったのかも、はっきりと見えてきます。

    以下、それぞれの要素ごとに見ていきます。

    その3.国益

    政治的な面にしても経済的な面にしても、戦争が決断されるのは「国益」をもたらすからこそです。

    『戦争論』で有名なクラウゼヴィッツは「戦争は外交とは異なる手段を用いて政治的交渉を継続する行為に過ぎない」と指摘しています。戦争の目的には常に政治的な意図が設定されており、戦争はそれを達成するための「手段」に過ぎない、という意味です。

    カール・フォン・クラウゼヴィッツ
    wikipedia:カール・フォン・クラウゼヴィッツ より引用
    【 人物紹介 – カール・フォン・クラウゼヴィッツ 】1780年 – 1831年
    プロイセンの軍人・軍事理論家。ナポレオン戦争にプロイセン軍の将校として参戦。戦後は研究と著述に専念した。死後の1832年に妻と協力者の手によりまとめられ、発表された著書『戦争論』にて、戦略・戦闘・戦術の研究領域において重要な業績を示した。ことに戦争を外交の一手段と定義した視点は、後世に大きな影響を与えた。『戦争論』は現代でも米陸軍戦略大学校をはじめ世界中の将校のほとんどが学び、ビジネスにも応用されて読み継がれている。

    大東亜戦争の起点は満州事変に求めることができます。青年将校が起こした反乱に過ぎなかったはずの満州事変を政府と軍部が追認したのは、世論の圧倒的な支持があったこともたしかですが、何よりそれが日本の国益に適っていたからこそです。

    満州を日本の勢力圏に取り込むことで、まともな貿易ができない閉塞(へいそく)状態を打破できると信じられていました。

    その直後に日中戦争が勃発します。同じアジア人同士の戦いである日中戦争を人種戦争と位置づけることはできませんが、国益をかけた争いであったと考えれば、すんなりと理解できます。

    満州を守ることが日本にとっての国益でした。中国による度重なる挑発に堪えきれず、ついに日中戦争の火ぶたが切られます。それからは中国に暮らす日本人居留民の命と財産を守ることが、日本にとっての国益でした。

    しかし、引き際を誤ったために日中戦争は泥沼化し、日本の国益は大きく損なわれることになりました。

    対米英蘭戦争においては、石油を確保することが日本の国益でした。そのためにはアジアを欧米諸国の支配から解放し、日本の勢力圏に取り込む必要がありました。

    その4.恐怖

    戦争を行うのは国家ですが、実際に動いているのは個々の人間です。つまり戦争は、人間性に根差した活動と言えます。国益だけのために戦争が起こることは、まれです。打算以上に、もっと情念的な背景が作用します。

    人を行動に駆り立てる、もっとも大きな要素は「恐怖」や危機感です。そのことは、私たち自身に当てはめてみればわかりやすいことでしょう。

    身に迫った恐怖を感じたとき、私たちは後先を考えるよりも先に、まずは恐怖を避けようと行動するはずです。まして生命が危険にさらされたなら、なおさらです。

    恐怖は人の理性を麻痺させ、逃げるなり戦うなり、本能に根差した行動へと人を駆り立てます。そのような個人で構成された国家もまた、同じ道をたどります。

    相手に感じた恐怖こそが危機意識を高め、恐怖を取り除くために戦争を呼び込みます。

    対米戦争へと日本が舵を切る際にも、アメリカに対する恐怖が大きな原動力となりました。その恐怖は、直接にはアメリカの対日経済制裁によって生じました。

    石油が枯渇すれば、物理的にもはや日本は戦えなくなります。そのあとではいかなる要求を突きつけられても、受諾するよりありません。

    開戦か避戦かで揺れた際、開戦の恐怖よりも、日本がアメリカ側の要求をすべて受け入れて臥薪嘗胆を期した際に生じる恐怖の方が、はるかに大きかったのです。

    さらに、アメリカが一切の譲歩を拒んだため、戦争を避けると言うことは日本が戦わずして降伏することを意味していました。その際、人種差別によって受けるだろう迫害もまた、恐怖をさらに大きくしました。明治以降の日米の歴史のなかに、人種差別による計り知れない恐怖が積もっていたといえるでしょう。

    明治以降の日本の歩みは、まさに植民地とされることへの恐怖、日本人が白人の奴隷にされることへの恐怖を起点としていました。その恐怖を振り払うために日本は列強と対等な国になろうと努め、遅ればせながら列強に倣って帝国主義を掲げる文明国の仲間入りを果たしたのです。

    石油の枯渇によって軍事力が解体され、軍事大国の地位を失うことは、日本に言いしれぬ恐怖を生じさせました。

    こうした恐怖こそが、日本を開戦へと突き動かした大きな要因です。

    恐怖の前に理性は吹き飛びます。「トゥキュディデスの三要素」では、戦争の勝算については考慮されていません。

    本能に基づく恐怖の前では、「勝ち目のない戦争を避ける」という理性は意味をもちません。実際には勝算を描けなかったとしても、なんとか言い繕って体裁を整えるのが人間です。

    恐怖という感情は、おいそれと簡単に打ち払えるようなものではなかったのです。

    その5.大義

    自国の掲げる大義のために戦争を選択することは、古の時代から現代に至るまで何度も繰り返されてきました。

    大義と国益は異なります。国益は純粋に自国にとっての利益に過ぎず、他国から見て戦争の正当性には繋がりません。対して大義は、戦うことの正当性を自国民と他国に向けて主張できるものです。まさに国家にとっての正義と言ってもよいでしょう。

    大義は実際に戦う兵の士気を高めるためにも必要とされます。単に利益のために戦うのか、それとも人類普遍の、命を賭してでも惜しくない何かのために戦うのかによって、士気に大きな違いが生じます。

    大東亜戦争においてアメリカは、民主主義対ファシズムの戦いを大義に掲げました。連合国側は民主主義に基づく国家であり、枢軸国側はファシズムに基づく国家だと訴えました。

    ファシズムとは第一次世界大戦後に現れた政治体制のことで、自由主義を否定し、一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧を特色としています。

    ただし、ヒトラーに率いられたドイツとムッソリーニが牽引するイタリアがファシズム国家であることは論を俟ちませんが、日本がファシズム国家であったとする論には多くの異論が出ています。

    アドルフ・ヒトラー
    wikipedia:アドルフ・ヒトラー より引用
    【 人物紹介 – アドルフ・ヒトラー 】1889年 – 1945年
    ドイツの政治家。オーストリア生まれ。第1次世界大戦に志願して出征した後、ドイツ労働者党に入党、党名を国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改称して党首となった。ミュンヘン一揆に失敗して入獄。出獄後は合法活動によって党勢を拡大し、1933年に首相、翌年大統領を兼ねて総統となり全体主義的独裁体制を確立。いわゆる第三帝国を建設した。反ユダヤ主義とゲルマン民族の優越性を主張、ユダヤ民族撲滅を目指してホロコーストを実行した。強硬外交と軍備拡張により近隣諸国を次々に侵略し、第2次大戦を引き起こす。ベルリン陥落直前、官邸にて自殺を遂げた。
     ベニート・ムッソリーニ
    wikipedia:ベニート・ムッソリーニ より引用
    【 人物紹介 – ベニート・ムッソリーニ 】1883年 – 1945年
    イタリアの政治家。小学校教員を経て社会党左派に属するも、第一次大戦にて主戦論を採ったことにより除名。大戦に従軍して負傷。戦後、武装私兵として知られる黒シャツ隊を組織し、社会主義者を襲撃した。国会議員当選後、ファシスタ党を結成し党首となる。ローマ進軍により政権を掌握、ファシズム体制を確立して独裁者となった。その後はイタリア・エチオピア戦争、スペイン内乱介入など対外侵略を推進。独日と結び第二次大戦に突入。連合軍のイタリア上陸で失脚し、一時はドイツ軍に救出されるも、のちパルチザンに捕らえられ銃殺。

    また、米英はともかくとして、中国にしてもソ連にしても、民主主義国と括るには無理があります。

    一方、日本は「東亜の解放」という大義を掲げました。1943(昭和18)年に外相の重光葵は、日本の大義を世界に向けて次のように発信しています。

    「東洋の解放、建設、発展が日本の戦争目的である。亜細亜は数千年の古き歴史を有する優秀民族の居住地域である。亜細亜が欧米に侵略せられた上に其植民地たる地位に甘んずる時機は己に過ぎ去った」

    重光葵手記』重光葵著(中央公論社)より引用

    「東洋の解放・建設・発展」こそが日本の戦争目的であると、明言しています。そのためにはまず、東亜を植民地として支配し続ける欧米諸国の軍を追い出し、植民地を解放した上で民族自決に向けて手助けをすることが日本にとっての大義とされました。

    重光葵(しげみつ まもる)
    wikipedia:重光葵 より引用
    【 人物紹介 – 重光葵(しげみつ まもる) 】1887(明治20)年 – 1957(昭和32)年
    第二次世界大戦期の日本の外交官(外相)・政治家。満州事変当時は駐華公使。1943年11月の大東亜会議を開くために奔走した功績は高く評価されている。敗戦後は日本政府の全権として降伏文書に署名した。東京裁判ではA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受ける。釈放後は外相として日本の国連加盟を成功させた。

    重光は次のような趣旨についても述べています。

    世界史を振り返るならば、第一次世界大戦は民族解放のための戦いでした。第一次大戦後のパリ会議においては、民族自決が高々に宣言されています。

    民族自決とは、各民族が多民族の干渉を受けることなく、自らの意志によってその運命を決定するという政治原則です。つまり、政治的に独立し、自ら政府を作る権利のことです。

    ところが民族自決はヨーロッパの白人のみに適用される原則であり、アジアやアフリカには及びませんでした。

    「東洋に対しては亜細亜[アジア]植民地の観念は何等改めらるる処なく、即ち東洋人に対しては人種の平等が認められぬのみでなく、民族主義の片鱗をも実行せられなかった。東洋を永遠に西洋の奴隷であるとする考えが尚維持せられたのは非常な矛盾であった。」

    重光葵手記』重光葵著(中央公論社)より引用

    アジアに暮らす諸民族の願いも空しく、アジアは相変わらず欧米諸国の植民地、あるいは半植民地であり続け、解放の兆しは一部の例外を除けばありませんでした。

    日本にとって第二次世界大戦は、アジアの民族が民族解放を求めるための戦いでした。この戦いによってアジアの民族が覚醒し、植民地から解放されることを重光は願いました。

    アジア及びアフリカが解放され、復興して、世界の平和に寄与してこそ、人類の進歩と云うことが出来得るのである。欧州諸国が、アジア及びアフリカを踏み台とし、搾取の対象として、植民地扱いにする間は、世界の平和は確保することは出来ぬ。日本の戦争目的は、東方の解放であり、アジアの復興である。この他に、日本は何等野心をもたない。これが、日本が大東亜戦争という戦争に突入して行った戦争目的であって、これさえ実現すれば、日本は何時でも戦争終結の用意がある、というのが我が主張であった。

    昭和の動乱(下)』重光葵著(中央公論新社)より引用

    東亜の開放は、明治以降の日本が求めてきた悲願でした。

    こうしてトゥキュディデスの「三要素」を大東亜戦争に当てはめてみると、あの戦争が起きた原因が、おぼろげながらも浮かび上がってきます。

    国益・恐怖・大義の三要素が交互に絡み合うことで、はじめて戦争が引き起こされたと言えるでしょう。したがって、どれか一つだけを取り出し、ことさら強調することには問題がありそうです。

    たとえば大義のみに着目し、日本がアジアの植民地を解放するためだけに戦争を決行したという美しい物語、いわゆる聖戦史観のみを妄信することにはリスクが伴います。これについては、後に詳述します。

    次回は大東亜戦争を戦った父祖たちの思いに焦点を当て、大東亜戦争とはなんであったのか、その本質について迫ります。

    ドン山本
    ドン山本
    タウン誌の副編集長を経て独立。フリーライターとして別冊宝島などの編集に加わりながらIT関連の知識を吸収し、IT系ベンチャー企業を起業。 その後、持ち前の放浪癖を抑え難くアジアに移住。フィリピンとタイを中心に、フリージャーナリストとして現地からの情報を発信している。

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